1868年, 日本・京都

天満屋事件

坂本龍馬の仇討ちから新選組との斬り合いへ

カテゴリー
読み応え
年代
国・地域
update:2018/10/12 08:44:52

天満屋事件(てんまやじけん)は、海援隊士・陸援隊士らが京都油小路旅籠・天満屋を襲撃して、紀州藩三浦休太郎を襲い、新選組と戦った事件である。

経緯

陸奥宗光
三浦休太郎(三浦安)

陸奥宗光は、当時有力な佐幕論者であった紀州藩士三浦休太郎が大垣藩井田五蔵らと共謀して京都にて不穏な動きをしていること、また坂本龍馬中岡慎太郎の暗殺(近江屋事件)の黒幕が、いろは丸沈没事件の際に多額の弁償金を龍馬に支払わされた恨みを持つ紀州藩であるとの話を聞き、紀州藩公用人であった三浦休太郎を討つことを海援隊士・陸援隊士らと計画する。

危険を感じた紀州藩は、会津藩を通して新選組に三浦の警護を依頼した。天満屋で三浦休太郎の護衛に新選組の斎藤一大石鍬次郎ら7名がついた。

慶応3年12月7日1868年1月1日)、海援隊・陸援隊士ら総勢16名(15名とも)が、三浦休太郎、新選組隊士らが天満屋2階にて酒宴を行っていたところを襲った。出会い頭に十津川郷士中井庄五郎が「三浦氏は其許か」というなり斬りつけ、三浦休太郎は頬頤を負傷する。その後、両者は入り乱れるが、燈火を消し、暗闇での戦闘となる。

斎藤は後から斬りかかられ、命を落としそうになったが、梅戸勝之進(平隊士)が斎藤を守った。変を聞きつけた新選組、紀州藩が援助に向かったものの、着いた頃には陸奥らは素早くその場を引き揚げていた。

この事件で、襲撃側は中井庄五郎が死亡、2、3名が負傷した。一方の新選組は宮川信吉舟津釜太郎が死亡、重傷1名、負傷者3名を出し、紀州藩では三浦が頬頤に傷を負い、三宅精一、関甚之助も軽傷を負った。また『南紀徳川史』には佐波某、三浦の若党藤左衛門及び若輩の仲間某は楼下に在りしが、槍傷を受け三人共に落命、とある。

京都市下京区油小路正面の跡地には石碑が建てられている。

中井庄五郎

人物

坂本龍馬と交流があり、龍馬が暗殺された敵討ちとして、容疑者の一人であった三浦休太郎を三浦が利用していた天満屋を襲撃した際に討ち死にした(天満屋事件)。

経歴

奈良県十津川村にある生誕地碑

弘化4年(1847年)4月23日、十津川野尻郷の郷士・中井秀助の三男に産まれる。産まれたときから全身毛に覆われていたらしい。少年時代もその影響で周りの子供から「ひげ男」「熊」などとあだ名された。幼少時から剣術をやり(どこで誰に教わったかは不明)、田宮流抜刀術を学んだ。

文久3年(1863年)、かねて親交のあった同じく十津川郷士の上平主税に連れられて上京し、十津川郷士による御所警衛に参加。そのとき多数の尊皇攘夷志士と交わり、自らも尊皇攘夷思想を持つ。慶応元年(1865年)、一旦帰郷していたが、十津川に剣術教授の為に在郷していた土佐藩士、那須盛馬に剣術の腕を認められ、共に再び上京。慶応2年(1866年)、長州藩品川弥二郎新選組村岡伊助を討つよう依頼され、同十津川郷士の前岡力雄と共にこれを討ち、功績が称えられ、長州藩から長刀が贈呈された。

同年に京の寺田屋で坂本龍馬と時勢を論じ合った。ここで中井はまだ20歳であった自分と対等に話をしてくれた龍馬に感激した(当時龍馬は30歳)。このことで中井は周囲の人々に「かれの為ならいつでも死ねる。」と語っていたという。慶応3年(1867年)1月7日、京で那須の護衛を務めているとき、二人とも泥酔状態していたが、四条大橋にて同じく泥酔していた新選組の沖田総司永倉新八斎藤一の三人に遭遇して斬り合いとなり、那須は軽症を負うものの、中井は間一髪の所で無事だった。

同年11月15日、京の近江屋で龍馬が何者かによって暗殺される(近江屋事件)。それを知った海援隊残党の陸奥陽之助(のち宗光)らはこの事件は同年起きた伊呂波丸事件で龍馬に多額の賠償金を支払うことになった紀州藩公用人の三浦休太郎の恨みによる犯行だとして、海援隊・陸援隊の志願者と共に三浦を討つことを決めた。中井は龍馬に親交があった為、この討ち入りに参加した。一方、三浦は身の危険を察し、会津藩を経由して新選組に警護を依頼していた。同年12月7日、三浦及び新選組の護衛隊数人は、油小路通花屋町下ルの旅宿天満屋に止宿して、宴会を行っているところを陸奥らが討ち入った。一番乗りの中井は、部屋に入るなり、三浦に「三浦氏は其許か」と言って斬りつけ、陸奥が率いる海援隊・陸援隊が突撃し、新選組と斬り合いになった(天満屋事件)。中井は奮闘したが、新選組隊士に斬りつけられて討ち死にした。享年21。

維新後、天満屋に中井庄五郎殉難の碑(京都市下京区油小路)が立てられた。贈従五位。墓は東山霊山墓地にある。