1996年, アメリカ合衆国

ソーカル事件

デタラメな論文が著名な論文誌に掲載

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update:2017/12/21 15:29:51

ソーカル事件(ソーカルじけん)とは、ニューヨーク大学物理学教授だったアラン・ソーカルが起こした事件。

数学・科学用語を権威付けとしてでたらめに使用した人文評論家を批判するために、同じように、科学用語と数式をちりばめた無意味な内容の疑似哲学論文を作成し、これを著名な評論誌に送ったところ、雑誌の編集者のチェックを経て掲載されたできごとを指す。掲載と同時にでたらめな疑似論文であったことを発表し、フランス現代思想系の人文批評への批判の一翼となった。

事件の経過

1994年、ニューヨーク大学物理学教授だったアラン・ソーカルは、当時最も人気のあったカルチュラル・スタディーズ系の評論雑誌の一つ『ソーシャル・テキスト』に、『境界を侵犯すること:量子重力の変換解釈学に向けて』( Transgressing the Boundaries: Towards a Transformative Hermeneutics of Quantum Gravity )と題した疑似論文を投稿した。

この疑似論文は、ポストモダン哲学者社会学者達の言葉を引用してその内容を賞賛しつつ、それらと数学理論物理学を関係付けたものを装っていたが、実際は意図的にでたらめを並べただけの意味の無いものであった。

ソーカルの投稿の意図は、この疑似論文がポストモダン派の研究者によってでたらめであることを見抜かれるかどうかを試すことにあった。疑似論文は1995年に受諾され、1996年5月発行のにソーシャル・テキスト春夏号にそのまま、しかもポストモダン哲学批判への反論という形で掲載された。当時同誌は査読制度を採っておらずこうした失態を招き、編集者は後にこの件によりイグノーベル賞を受賞している。また後に査読制度を取り入れた。

「疑似論文」に用いた数学らしき記号の羅列は、数学者でなくとも自然科学高等教育を受けた者ならいいかげんであることがすぐに見抜けるお粗末なものだったが、それらは著名な思想家たちが著作として発表しているものをそっくりそのまま引用したものだった。この「疑似論文」は放射性物質のラドンと数学者のヨハン・ラドン(Johann Radon)を混用するなど、少し調べると嘘であることがすぐ分かるフィクションで構成されている。

なお、ソーカルの疑似論文が載ったのは、科学論における社会構築主義に対する批判への再反論を掲載するため、「サイエンス・ウォーズ特集号」との副題のついた『ソーシャル・テキスト』の特集号であった。したがって、『ソーシャル・テキスト』の編集者にとっては、『考えられるかぎり最悪の自滅行為』であったといえ、以後、サイエンス・ウォーズとの言葉はソーカルに対する賛否両論の立場から用いられるようになった。

ソーカルの悪戯は、『一般向けのジャーナリズムと専門家向けの出版界に嵐のような反応を引き起こし』、ニューヨークタイムズの一面に載ったほか、ヘラルド、ル・モンドなどの有力紙で報じられた。

その後、1997年、ソーカルは数理物理学者ジャン・ブリクモンとともに『「知」の欺瞞』(Impostures Intellectuelles、「知的詐欺」) を著し、ポストモダニストを中心に、哲学者、社会学者、フェミニズム信奉者(新しい用法でのフェミニスト)らの自然科学用語のいいかげんな使い方に対して批判を行った。

この本でソーカル達はジャック・ラカンジュリア・クリステヴァリュス・イリガライブルーノ・ラトゥールジャン・ボードリヤールジル・ドゥルーズフェリックス・ガタリポール・ヴィリリオといった著名人を批判した。彼らの多くはフランスのポスト・モダニストであるが、これはポスト・モダニストのみが科学知識を乱用していることを意味しない。ソーカルによれば、ソーカルにできるのはポスト・モダニストの批判だけだったので彼らを批判したのである。他の分野も同様に批判して欲しいという依頼を、その分野の周辺や若手の評論家達から受けることがあるが、『これは我々(=ソーカルとブリクモン)の手には余る』行為であった。

ソーカルのこのような一連の行動に対し、文芸批評家・法学者のスタンレー・フィッシュは学術論文のでっちあげには破壊的な影響があるなどと反発した。 しかし、ソーカルの真意は思想家が数学や物理学の用語をその意味を理解しないまま遊戯に興じるように使用していることへの批判だった、と後にコメントしている。

なお、ポストモダン・ポスト構造主義の思想家であっても、ジャック・デリダロラン・バルトミシェル・フーコーは、ソーカル事件においては直接批判対象になっていない(ただし、ソーカルは事件前にデリダの批判を行っている。後述「批判と反応」を参照)。

内容と影響

ソーカルとブリクモンは『「知」の欺瞞』の中で、自身の目的を次のように述べている。

われわれの目的は、まさしく、王様は裸だ(そして、女王様も)と指摘する事だ。しかしはっきりさせておきたい。われわれは、哲学、人文科学、あるいは社会科学一般を攻撃しようとしているのではない。それとは正反対で、われわれは、これらの分野がきわめて重要と感じており、明らかに事実無根のフィクションと分かるものについて、この分野に携わる人々(特に学生諸君)に警告を発したいのだ。

またソーカル等は衒学的な評論家が科学用語を無意味に使う事に対して以下の趣旨の事を述べている。

「私はたしかに自然科学の専門家だが、そのことは批判の正しさには不必要である。自然科学者でなくとも、正しい批判は可能である。言語学者のチョムスキーもいっているように、中身の濃い分野ほど肩書きより内容に興味を持ち、中身の薄い分野ほど内容より肩書きに興味を持つものである」

ソーカルたちは、上記の視点から自身が「衒学者」と見なしている学者たちの「科学的なナンセンスぶりは『単なる「誤り」として見過ごすことができるような代物ではなく』、『事実や論理に対する軽蔑、といわないまでもひどい無関心がはっきりとあらわれている』として、「『化学や生物学にすら顔を出さない深遠な数学的概念が思想や文学に奇跡的にも関係する、というような話は疑ってかかるべき』なのは当然だ」と主張している。

ソーカルによれば、(ポストモダンの著作で)「最もよく見られるのは、用語の本当の意味をろくに気にせず、科学的な用語を使って見せる」行為であり、ポストモダニストたちは「人文科学の曖昧な言説に数学的な装いを混入し、作品の一節に「科学的」な雰囲気を醸し出す絶望的な努力」をしているのだった。

しかし、ソーカルの批判の対象となった批評家の支持者たちは、ソーカルの批判に真剣に取り組もうとせず、「哲学を分かっていない」といったコメントを発する程度のことしかしないなど、全く反論にならない感情的な反発しかしなかった。そのため、彼らに関して言えば、でたらめというレッテルを払拭できないのが現状である。

実際のところ、ソーカルは、別に「ポストモダン哲学」自身を批判したいわけではないと『「知」の欺瞞』ではっきり断っている。 ソーカルが批判したのは、権威づけだけのために使われている「科学的」説明であり、科学用語を無意味に散りばめて読者を煙に巻く評論家達の欺瞞であった。

ソーカル等の批判に対し、「ポストモダンにおける科学用語の使用は単なる比喩である」という再反論が考えられる。しかし、ポストモダニストの中には、比喩以外の文脈で科学用語を乱用しているものもいた。たとえば、ラカンは、神経症がトポロジーと関係するという自身のフィクションについて、『これはアナロジーではない』とはっきり発言している。また、ブルーノ・ラトゥールも、経済と物理における特権性に関する自身のフィクションについて、『隠喩的なものでなく、文字通り同じ』と隠喩でないことを強調している。ソーカルとブリクモンは、『「知」の欺瞞』の中で、これらのフィクションにおける「科学」がいかにデタラメかと批判している。 また、クリステヴァは、一方で詩の言語は「(数学の)集合論に依拠して理論化しうるような形式的体系」であると主張しているのに、脚注では「メタファーとしてでしかない」と述べている。

なお、『「知」の欺瞞』によれば、彼らは比喩や詩的表現そのものを批判したわけではない。 ソーカルたちの批判は、ポストモダニストが「簡単なことを難しく言うために比喩を使っている」 という点にある。 たとえば、彼らが言うように、ソーカルとブリクモンが『場の量子論についての非常に専門的な概念をデリダの文学理論でのアポリアの概念にたとえて説明したら』失笑を買うはずなのである。

批判と反応

デリダは、ソーカルらが初期の「欺瞞」攻撃を展開しはじめた雑誌論文では、自分のことを標的としていたにもかかわらず、1997年10月19日の「リベラシオン」紙上では「フリリューとリメは我々がデリダに不公正な攻撃を加えたと非難しているが、そんな攻撃はしていない」とし、アルチュセール、バルト、デリダ、フーコーらを取り上げなかったとしたこと、そしてその記事の原文(タイムズ・リテラリー・サプルメント紙)ではデリダの名前を外し、そのフランス語訳においてデリダを標的としなかったことを指摘したうえで、「なんというご都合主義でしょうか。お二人は真面目じゃない」と断じた。また、ソーカルらの批判活動の初期における対象であったデリダの言説は、1966年の講演でイポリットからの質問への即興的な応答のみを扱ったもので、デリダはソーカルらの批判の展開を予期し、議論を準備していたが、そうはならなかったこと、またゲーデルの公理や決定不能性について、デリダは幾度も言及しているにもかかわらず、それを問題としなかったこと、つまり「読む作業をしなかった」と非難した上で、「悪戯が仕事の代わりになるとは、なんとも悲しむべきではありませんか」とソーカルたちの手段を皮肉っている。

しかし、ジャック・ブーヴレスは、ソーカルたちを擁護する立場から、デリダのこの発言を不誠実な対応だと批判している。

また、クリステヴァは「偽情報」を提供したとしてソーカル等を批判している。

ソーカルの『「知」の欺瞞』は、認識論における認識的相対主義も批判の対象にしているが、この分野に関しては「素朴実在論」「クーン以前」と批判する論者も存在する。

日本における影響

日本では、山形浩生らがソーカルらの批判に応じて、浅田彰の著書「構造と力」の一部の記述を同様の仕方で批判した。これに対して、浅田は、雑誌『批評空間』の公式ウェブサイトで返答している。

黒木玄は、この点について、疑似科学批判を展開する立場から、「『構造と力』を実際に覗いてみると、 3次元空間内でのクラインの壺の擬似的な実現に頼った説明の仕方をしているのは、山形浩生ではなく浅田彰の方である」とし、「大したことじゃないんだから、浅田彰は自分自身の失敗を認めた方が良かった」として山形を擁護している。

しかし、この山形の批判に対して、大阪大学数学教室のトポロジスト菊池和徳は、文脈上の流れから浅田の説明が誤っていないと反論し、最終的に山形も掲示板で自らの間違いを概ね認めた。

なお、浅田は、ソーカル事件で示されたフランス現代思想潮流の衒学性の問題については、フランスで『知の欺瞞』が出版された1997年当時から少なくとも2001年8月1日にいたるまで、一貫して「ソーカル事件」の教訓を強調し、ソーカルらによる論証は対象となるそれぞれの論者を本質的に批判しておらず、また批判の根拠たる科学主義も絶対ではないと応じながらも、「明晰にできることはできるだけ明晰に」すべきだというソーカルの意見をある程度認めている。

また、思想史家の仲正昌樹は、浅田と同様ソーカルたちの一部の主張を認めながらも、批判対象とされた哲学者たちに関する文章や論考を執筆している立場から、ソーカルたちの主張が彼らの趣旨とは全く離れる形で、哲学が苦手な読者層や人文系に精通していない学者に受容され、ソーカルたちが批判した哲学者やそれに影響された評論が過小評価・誤解されている現状や、ソーカルの主張だけを耳にしてソーカル事件の問題点を誤解・無視している読者やネットユーザーを批判し、『「知」の欺瞞』の日本語訳者たちについても、邦訳する際にソーカルたちが明らかに誤読をしている・文脈を見誤っている部分を訳注などで示していないことを問題視している。

文芸評論家の山川賢一は、仲正が著作『集中講義 日本の現代思想』において、ポストモダンが勢いを失った理由としてソーカル事件を挙げていない点を指摘したことをきっかけに、仲正による批判の対象となった一人である。

山川は、仲正の批判に対する回答として、仲正のブログ記事と『集中講義 日本の現代思想』における不整合を指摘しながら「ソーカル事件についての理解がずれており、反論に値しない」とし、仲正は、その再反論の中で、根本的な社会礼節の欠如と、哲学史的知識の根本的な不足を、自身のコラム内で批判している

イグノーベル賞

1996年、「ソーシャル・テキスト」誌の編集長はソーカル事件の件に関してイグノーベル文学賞を受賞した。「著者でさえ意味がわからず、しかも無意味と認める「論文」を掲載した」のが受賞理由である。

受賞に際しての「ソーシャル・テキスト」誌の編集長のコメントは「ソーカルの論文を掲載した事を、心の底から後悔しています」であった。

編集長はイグノーベル賞の授賞式に出席しなかったが、ソーカルは祝福のメッセージを寄せ、そのメッセージは授賞式で読み上げられた。