1976年, イタリア

セベソ事故

ダイオキシンによる広範囲の汚染

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update:2017/12/22 21:16:32
事故の跡地

セベソ事故 ( Seveso disaster ) とは、1976年7月10日イタリアロンバルディア州ミラノの北25km付近に位置するセベソの農薬工場で発生した爆発事故である。

代表的なダイオキシンである2,3,7,8-テトラクロロジベンゾ-1,4-ジオキシン (TCDD) が30kg~130kgの間で住宅地区を含む1800ヘクタール(新宿区に相当する)に飛散し、ダイオキシン類の暴露事故としては大規模なものとなった。

高汚染地区は居住禁止・強制疎開などの措置が取られた。周辺地域では鶏、兎、猫等の家畜が大量死したり、奇形出生率が高くなった事が報告されている。この事故を教訓として、ECは化学工場の安全規制を定めたセベソII指令を定めている。

事故の概要

地理

最も被害が集中したセベソ地区は、1976年時点で人口17,000人であった。その近隣のメーダ(同19,000人)、デージオ(33,000人)、チェザーノ・マデルノ(34,000人)、バルラッシーナ(6,000人)、ボヴィージオ=マシャーゴ(11,000人)にも被害が及んでいる。

ジボダン社の子会社であるICMESA (Industrie Chimiche Meda Società) 社が所有していた問題の工場はメーダ近くに位置していた。工場が建設された時期は古く、地元の人もこの工場が危険性を孕んでいることに気付かなかった。

化学反応

TCDD生成の反応

事故が発生したB棟は、1,2,4,5-テトラクロロベンゼン (上図の1) に水酸化ナトリウムを反応させ(芳香族求核置換反応)、枯葉剤である2,4,5-トリクロロフェノール (TCP・上図の2) を製造していた。TCPは消毒薬であるヘキサクロロフェンの原料としても利用される。

通常時では、反応釜の上部で、1,2,4,5-テトラクロロベンゼンの一部を溶解させ、水酸化ナトリウムと反応させていた。生じる反応熱によってさらに原料が追加され、反応温度が上昇するシステムであった。通常のTCP生産時であっても、何らかの金属によるウルマン縮合、または単純な芳香環への求核攻撃により、ppm単位のTCDD (上図の3) が副生成物として混入していた。

事故発生時、運転指示書を無視した作業員の人為的なミスにより反応が熱暴走した。反応容器の安全装置である破裂板が吹き飛んで、内容物が大気中に放出された。水酸化ナトリウム・TCPナトリウム塩・溶媒のエチレングリコールとともに、数百グラム~数キログラムのTCDDがエアロゾル状となって18平方キロメートルの範囲に飛散した。

事故直後の状況

ICMESA社や自治体による初動対応はお粗末な物であった。事故直後に住民が受けた説明は、地元産の野菜や果物を食べないようという指示のみであった。ダイオキシンが放出されたことが公表されたのは事故から一週間後であり、除去開始にはさらに一週間を要している。TCDDの毒性が詳しく分かっていなかったこともあり、事故が公表されてから住民は恐怖に陥った。

汚染地域は、土壌表面のTCDD濃度を基にAゾーン、Bゾーン、Rゾーンの3種に分類される。

  • Aゾーン:TCDD濃度が50μg/m²以上の地域。住民数736人。
  • Bゾーン: TCDD濃度が5μg/m²以上50μg/m²未満の地域。人口約4,700人。
  • Rゾーン: TCDD濃度が5μg/m²未満の地域。人口約31,800人。

事故の当日中に、家禽やウサギなど3,300羽の動物が死亡。また食物連鎖によるTCDDの拡散を防ぐため、生き残った動物も殺処分され、その数は1978年までに約80,000匹となった。皮膚に炎症を起こした15人の子供が病院に運ばれている。8月末までにAゾーンはフェンスで完全に隔離された。

1,600人の住民を検診した結果、447人に皮膚損傷あるいはクロロアクネと呼ばれる独特の吹き出物が生じていた。また妊婦には特例として中絶が認められたため、相談所が設けられた。

ICMESA社の技術責任者であるHerwig von Zwehl氏と、生産責任者であるPaolo Paoletti博士が逮捕された。汚染地域を隔離・除染するための委員会が設立され、イタリア政府は400億リラを支出した(2年後までに支出額は3倍となった)。

除染作業

1977年1月までに、科学的調査・経済的援助・医療支援・汚染地域の除去および回復作業に関する計画が策定された。直後に、ICMESA社より地域住民に対し補償金が支払われた。除染作業は1977年春から開始され、また6月には住民220,000人に対して疫学的調査が開始された。

1978年6月、イタリア政府は補償金を400億リラから1150億リラに増額。補償金に関する和解の大部分が本年中に成立している。1980年2月5日、Paolo Paoletti博士が左翼ゲリラ団体であるプリマ・リネアのメンバーに射殺された。12月19日、イタリア首相アルナルド・フォルラーニ仲介のもと、ジボダン社、ICMESA社と自治体との最終和解が成立。この補償金総額は200億リラに達した。

除染に伴う廃棄物の行方

除染作業により、防護服やプラント内部に残留していた化学物質など大量の廃棄物が生じた。これらは放射性廃棄物用のドラム缶に封印され、法的手続きに則って処理されるはずであった。

汚染された廃棄物を焼却した焼却炉

1982年春、Mannesmann Italiana社はAゾーンからの廃棄物を処理する契約を請け負った。9月9日、41バレルの有毒性廃棄物がICMESA社から運び出された。12月13日、公証人は廃棄物が適切に処理されたことを宣言した。しかし1983年2月、スイスのテレビ局Télévision Suisse Romandeは『A bon entendeur』という番組内で、フランス北部でこれらの廃棄物が行方不明となっていることを報じた。

5月19日、41バレルの廃棄物がフランス北部のAnguilcourt-le-Sart村にあった旧屠畜場で発見されたため、フランス軍基地へと移送された。ジボダン社のさらに親会社であるロシュ社が、廃棄物を処理する責任を負うことを表明し、11月25日、同社が全廃棄物をスイスにて焼却処分したことを公表した。事故から既に9年が経過していた。廃棄物に含まれる高濃度の塩素によって焼却炉が傷んでいる可能性を指摘した科学者もいたが、ロシュ社は十分な修理を行ったと説明している。

事故の影響

9月、ICMESA社とジボダン社の元従業員5人に対し、禁固2年半~5年の判決が出された。5人全員が上訴している。1985年5月、ミラノの上告裁判所は5人中3人に対し無罪を宣告したものの、残る2人に対しては後にローマの最高裁判所で有罪が確定している。

現在では土壌の除染が完了しており、土壌のTCDD濃度は他の地域と同程度である。

この事故を受けて1982年ECが定めた工場の安全規制は、セベソ指令と呼ばれている。なお現在の規制は、2005年に改訂されたセベソ指令IIに基づいている。

健康への影響

事故翌年の流産率の異常な増加、女児の出生率増加、家畜の大量死、癌発生率の増加、奇形出産率の増加などがあげられる。事故翌年4〜6月の妊婦の流産率は34%となった。

イタリア政府の研究長であるピエール・アルベルト・ベルタージは、1993年以来、査読のある科学雑誌に一連の報告を公表しており、セベソでダイオキシンに被曝した多くの人々が糖尿病心臓病ガン(胃ガン、直腸ガン、白血病を含む)、ホジキン病肉腫の増加といった、様々な長期的な深甚な症状に苦しんでいることを明らかにしている。

限定的範囲の汚染地域でのある疫学調査では、事故後14年間の198人の出生例のうち、奇形児は0人である。ただし事故後の一定期間、出生に女児への偏りが見られた。事故後はじめの7年間(TCDDの半減期にあたる)では、出生数が男児26人に対し女児48人であった。次の7年間では男児60人に対し女児64人であり、既に有意差はない。