1630年, 神聖ローマ帝国・ドイツ

マクデブルクの戦い

2万人以上が虐殺された包囲戦

update:2017/12/23 14:47:13
破壊されるマクデブルク
略奪の様子を描いた絵画(1866年)

マクデブルクの戦いは、三十年戦争において1630年11月から1631年5月20日にかけて、カトリックである神聖ローマ帝国軍によって行われた、ルター派プロテスタント)のハンザ同盟都市マクデブルクの包囲戦及び戦闘終了後の略奪。略奪についてはマクデブルクの惨劇といった表現も用いられる。

ゴトフリート・ハインリヒ・グラーフ・フォン・パッペンハイム及びティリー伯ヨハン・セルクラエスに率いられた皇帝軍は富裕な都市マクデブルクを包囲した後陥落させた。

包囲されるマクデブルク

都市陥落後には傭兵で構成される兵士たちの制御が利かなくなり、住民の虐殺と略奪、市内への放火(同市は3日間燃え続けた)が行われた。この結果、3万人いた市民のうち生き残ったものはわずか5千人程となった。そのほとんどが女性であり、皇帝軍の兵士達による強姦の対象となった。その後14日間にわたり、伝染病を防ぐため死体がエルベ川のほとりまで運ばれて火葬された。

この事件はプロテスタント陣営に大きな衝撃を与えた。マクデブルクの惨劇を巡ってはプロテスタント、カトリック双方から激しいプロパガンダ合戦が行われたが、事件の性格上、プロテスタント側のプロパガンダが説得力を持った。それまでグスタフ・アドルフ率いるスウェーデン軍に、冷ややかな目で見つつ協力に消極的であった北ドイツのプロテスタント諸侯は、こぞってスウェーデン軍への協力を進めた。

その後、プロテスタントが命乞いをするカトリック教徒の捕虜を殺害するに際して「 マクデブルクの正義 」または「 マクデブルクの命乞い 」という言葉が使われた。

壊滅的な打撃を受けたマクデブルクでは、ヴェストファーレン条約発効の時点で人口が450人しかいなかった。