1868年, 日本

会津戦争

白虎隊で有名な会津等旧幕府軍と明治政府軍の局地戦

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update:2018/08/06 15:07:44
会津戦争

会津戦争慶応4年/明治元年(1868年))は、戊辰戦争の局面の一つであり、会津藩の処遇をめぐって、薩摩藩土佐藩を中心とする明治新政府軍と、会津藩およびこれを支援する奥羽越列藩同盟などの徳川旧幕府軍との間で行われた戦いである。現在の福島県会津地方が主戦場となった。

背景

文久2年(1862年)、会津藩主・松平容保京都守護職に就任し、新撰組を配下にするなどして尊皇攘夷志士の取り締まりを強力に推進し、禁門の変においても幕府方の中核として尊皇攘夷派の排除を行った。鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が破れ、徳川慶喜と共に江戸に退去した容保は、新政府の追討令を受けた慶喜の恭順方針に従って自らも恭順の姿勢を示すため会津へ帰国し謹慎するが、藩内では主戦論が支配的であり、それを察知していた新政府側でも会津藩の恭順姿勢を信用してはいなかった。

慶応4年(1868年)3月11日、江戸城が無血開城され(江戸開城)、徳川慶喜が水戸で謹慎すると、薩摩藩長州藩を中心とした新政府の矛先は佐幕派の重鎮として敵視されていた容保に向けられる。

追討を命じられていた仙台藩米沢藩など東北諸藩は会津藩に同情的で、会津藩赦免の嘆願を行う一方、奥羽越列藩同盟を結成して結束を強めた。奥羽14藩では会議を開いて会津藩と庄内藩の赦免嘆願を目的として、新政府の奥羽鎮撫総督九条道孝に嘆願書を提出したが、東征大総督府下参謀・林通顕による「会津は実々死謝を以ての外に之(こ)れなく」という基本方針は既に決定しており、朝廷へ直接建白を行う(太政官建白書)も認められることはなかった。奥羽越藩同盟の結成時点(白石会議)では赦免嘆願を目的としていたが、会津藩が明治新政府の通達に対して罪を認めず謝罪を拒否する回答書を示した事と、明治新政府の鎮撫使である世良修蔵が仙台藩士によって殺害された事件から戦争に傾くことになる。

戦闘準備

会津藩家老西郷頼母は戦況が圧倒的に不利と見て従来から主張していた和議恭順を藩主・松平容保に勧めるが、容保は徹底抗戦を主張し徴兵に乗り出した。 また、藩側に逃げてきた農民町人らも、武器を渡され戦うことを命じられることとなった。

しかし他の藩と同様に、会津藩も領民に対して苛酷な租税を課していたため、重税さらには戦争にまで巻き込まれる形となった領民たちの士気は低く、逃走者が後を絶たなかった。意気揚々と鳥羽・伏見の雪辱に燃える会津藩士とは対照的であった。

とくに(藩の軍資金確保を名目に)資産のほとんどを徴発された会津の町人たちに至っては、征服者である新政府軍を「官軍様」と呼び、会津藩士を「会賊」と呼び捨てにした。

また、新政府軍の拠点確保を阻止するため、一部の村々を焼き払ったことも、領民たちの恨みを深くした。

そのため、後に進軍してくる新政府軍が、会津藩領の村々から大量の人夫・・軍資金などを徴発しても、反発するどころか、歓迎してこれに応じる者までいる有様だった。

経過

白河口の戦い

戊辰戦争の白河口の戦いで焼失した白河小峰城

白河藩は当時国替えにより藩主不在となり、幕府直轄領であった。旧幕府軍は会津藩家老の西郷頼母を総督として、慶応4年閏4月20日 (旧暦)(1868年6月10日)に白河城を占領。これに対し新政府軍は、薩摩藩参謀・伊地知正治の指揮のもと、閏4月25日 (旧暦)(6月15日)に白河への攻撃を開始し、5月1日6月20日)に白河城を落城させる。旧幕府軍は7月までの約3か月間、白河奪回を試みて戦闘を繰り返したが、奪回はならなかった。

二本松の戦い

慶応4年6月24日(1868年8月12日)に棚倉城が落城、7月16日9月2日)に三春藩が奥羽越列藩同盟を脱退し、明治新政府軍はじりじりと北上した。7月29日9月15日)、藩兵の大半が白河口に出向いている隙をつき新政府軍は二本松城を攻撃。城は落城し二本松藩主・丹羽長国は米沢へ逃れた。二本松藩は少年兵部隊を動員しており、彼らは後世、二本松少年隊と呼ばれた。特に木村銃太郎率いる20名は攻城戦の最中にそのほとんどが戦死し、会津戦争の悲劇のひとつとして語り継がれた。 

若松城下への侵攻

二本松領を占領した新政府軍では、次の攻撃目標に関して意見が分かれた。大村益次郎は仙台・米沢の攻撃を主張し、板垣退助と伊地知正治は、会津藩への攻撃を主張した。板垣・伊地知の意見が通り会津藩を攻撃することとなった。

二本松から若松への進撃ルートは何通りか考えられたが、新政府軍は脇街道で手薄な母成峠を衝いた。慶応4年8月21日(1868年10月6日)、新政府軍は母成峠の戦いで旧幕府軍を破り、40キロメートル余りを急進して同年8月23日(1868年10月8日)朝に若松城下に突入した。新政府軍の電撃的な侵攻の前に、各方面に守備隊を送っていた会津藩は虚を衝かれ、予備兵力であった白虎隊までも投入するがあえなく敗れた。このとき、西郷頼母邸では篭城戦の足手まといとなるのを苦にした母や妻子など一族21人が自刃し、城下町で発生した火災を若松城の落城と誤認した白虎隊士中二番隊の隊士の一部が飯盛山で自刃するなどの悲話が後世に伝えられている。

降伏

会津藩は会津若松城に篭城して抵抗し、佐川官兵衛、山口二郎(斎藤一)らも城外での遊撃戦を続けたが、9月に入ると頼みとしていた米沢藩をはじめとする同盟諸藩の降伏が相次いだ。孤立した会津藩は明治元年9月22日11月6日)、新政府軍に降伏した。同盟諸藩で最後まで抵抗した庄内藩が降伏したのはその2日後である。旧幕府軍の残存兵力は会津を離れ、仙台榎本武揚と合流し、蝦夷地(北海道)へ向かった(箱館戦争)。

会津藩が降伏したことで、今まで藩の重税に苦しんでいた農民たちにより、ヤーヤー一揆(会津世直し一揆)が起きた。

戦後処理

損傷した会津若松城(降伏後に撮影)

薩摩藩の軍監・桐野利秋や長州藩の参謀・前原一誠の計らいで容保は死一等を減じられて謹慎となり、養子の喜徳とともに江戸(東京)に護送されることになった。

本来であれば、家老上席にあった西郷頼母田中玄清神保内蔵助切腹するところであったが、西郷は行方知れず、神保と田中は城下での戦闘において自刃していたため、次席の萱野長修が、戦争責任を一身に負って切腹した。

江戸に送られることになった松平容保を、家臣たちは断腸の思いで見送りに来たが、これまで会津藩の重税に苦しめられてきた領民たちは何の関心も示さず、見送りにも殆ど現れなかった。

会津藩の領土は明治政府の直轄地として占領され、会津若松城下には政府機関である「明治政府民政局」が設置された。その後、各地で打ち壊しを行うヤーヤー一揆の農民たちに対して、明治政府は積極的に鎮圧はせず会津藩の旧村役人に交渉させ、一揆勢力の要求の多くを実現させた。

従来は新政府軍が遺体の埋葬を許さなかったとされてきたが、戦死した藩士らが埋葬されていたとする史料、『戦死屍取仕末金銭入用帳』の写しが会津若松市で見つかり、埋葬場所、埋葬経費などが詳細に記されている。写しによると、1868年10月3日から同17日にかけ、会津藩士4人が中心となり、鶴ケ城郭内外などにあった567体の遺体を発見場所周辺の寺や墓など市内64カ所に集めて埋葬した。発見当時の服装や遺体の状態、名前が記載されているものもある。 このうち、蚕養神社の西の畑にあった22体は近隣の60代女性が新政府軍の武士に頼み、近くに葬ってもらったとの記載がある。

領土を失った会津藩の武士らは、翌年の明治3年(1870年)謹慎を解かれて転封先として「猪苗代町(福島県耶麻郡)」と「斗南(現在の青森県むつ市)」のどちらかを明治政府により提示され、最終的に斗南を選択し、移住して三戸藩を立てた。旧会津藩士4700名余は斗南藩称していたが、明治3年6月に名称を斗南藩と改めた。

柴五郎によると「斗南」は漢詩からとったとの説が広く受け入れられているが、該当する古典漢詩が存在せず、会津藩士秋月悌次郎が慶応元年(1865年)に蝦夷へ左遷された際に詠んだ「唐太以南皆帝州」との類似が指摘されている。一方当時斗南藩の大属として藩政の中枢にいた竹村俊秀の『北下日記』には「「斗南」トハ外南部ノ謂ナリ」と記されており、当初「外南部」の略称に過ぎなかったものを大義名分に立って「北斗以南」の意義付けが行われたとの解釈もある。

西南戦争では、多くの元会津藩士が薩摩の巨魁である西郷隆盛への恨みを晴らすために、政府軍に志願したといわれる。また280万石の会津藩子息出身の軍人・柴五郎などは、西郷や大久保利通など、薩摩藩出身政治家に対して「当然の帰結であり断じて喜べり」と語っている。

会津藩一の成績優秀者で、年齢による白虎隊士除隊後から国費留学を経て東京大学総長など歴任した山川健次郎は、会津藩は兵法や武器が時代遅れで松平容保は幕府への忠誠心厚くかったが、情報に疎く藩主として藩内の多数派だった主戦論を抑えられなかったことを評している。

京都御所警備という朝廷の付近での任務に就いていたのに情報軽視や身分が硬直していた会津藩は、武士や地主以外の領民軽視で戦争の準備も軍制改革も遅かったとしている。和平主張する者を戊辰戦争末期まで排斥しいたことにも国際感覚もあった神保修理の助言通り恭順するか、最低でも鳥羽伏見の戦い後にでの圧倒的敗北後にもいた藩内強硬派こそ藩主として処罰するか説得するなどして時代の変化を理解して上手く立ち回るべきだったと述べている。

山川は自身が戦後に物理学を選考した理由に会津藩の朱子学など儒学重視で理系軽視だったことをあげている。しかし、兄と共に旧会津地域の支援をし、兄の死後も1901年に困窮した会津松平家のために宮中から下賜された金銭を渡したりしている。

藩士と領民の乖離

会津藩内では会津藩を支持しない者が非武士で多く、会津藩に組する者がほとんどいなかったのに特に戦後で当時を知らない世代に「当時の会津藩士や会津藩の目線中心」で教え込まれていると指摘されている。

そもそも勝敗を決した山から会津守備隊の側面への攻撃であり、その道案内をしたのは会津藩の農民たちだった。それ以前に、戊辰戦争時の不満がつのって藩内の支持を欠いていたことを、当時を知る斗南藩出身者から出版された『斗南藩史』にて指摘されている。

『斗南藩史』でも会津領内では藩主が幕府での地位や対外的の面子のため資金として普段から重い税を課してきたことや支持もしていない争いの渦中に巻き込まれた農民など領民の立場からしてみれば、長い間の施政に対する領主への不満に加わったとして会津藩や藩士がほとんど支持されていなかったことなども敗因の一つであると指摘されている。

逆に明治新政府側は尊王攘夷時代に外国との戦争で危機感と中央政府の必要性を覚えて加わった農民出身者が多数自主的に参加していたことで士気も高かった。こうした会津領民の専制的な体制に対するつもりつもった感情は、会津藩士の謹慎処分後の統治を引き受けた旧会津藩が占めた統治組織へ一揆が起きたことからも明白だと指摘されている。

会津藩の武士など上位層は移住処分を受けたが、実際にその他の領民はそのままだった。会津藩の上位層以外からの藩内は戦争へ関わらない派が圧倒的多数、会津藩への不満からの積極的・消極的明治政府軍支持が次、会津藩支持派は藩内の人口から見ても非武士出身者からはほとんどいなかったと記している。移住処分となった斗南藩士、つまり元会津藩士によると当時の会津藩の領民は「会津藩が勝手に戦っている」という感覚だった上に、藩への不満があった領民に相手側につかれたなど士気の差が敗因となったと記している。

会津戦争を描いた作品

書籍

映像作品