1807年, 日本

永代橋の落橋

死傷者1400名を越える最悪の落橋事故

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update:2017/12/22 01:36:02
現在の永代橋(2008年3月)

永代橋の落橋は、文化4年8月19日 (旧暦)1807年9月20日)、隅田川にかかる永代橋が群集の重みに耐えられず落橋した事故。死傷者1400名を越える、落橋事故としては最悪のものだった。

背景

永代橋が架橋されたのは元禄11年(1698年)8月であり、江戸幕府5代将軍徳川綱吉の50歳を祝したもので、現在の位置よりも100m程上流、(西岸中央区日本橋箱崎町、東岸江東区佐賀一丁目付近)当時大渡し(深川の渡し)のあった場所である。隅田川では四番目に作られた橋となった。

「永代橋」という名称は、当時佐賀町付近が「永代島」と呼ばれていたからという説と、江戸幕府が末永く代々続くようにという慶賀名という説(「永代島」は「永代橋」から採られたとする)がある。

第5代将軍・徳川綱吉の50歳の誕生日を記念して架橋を行ったのは関東郡代伊奈忠順であった。上野寛永寺根本中堂造営の際の余材を使ったとされる。長さ110間(約200m)、幅3間余(約6m)、また隅田川で最も下流で、江戸湊の外港に近く船手番所が近くにあり、多数の廻船が通過するために橋脚は満潮時でも3m以上あり、当時としては最大規模の大橋であった。橋上からは「西に富士、北に筑波、南に箱根、東に安房上総」と称されるほど見晴らしの良い場所であったと記録(『武江図説』)に残る。

元禄15年(1702年)12月の赤穂浪士吉良上野介屋敷(所在地は現墨田区両国)への討ち入りでは、討ち入り後に上野介の首を掲げて永代橋を渡り、泉岳寺へ向ったという。

落橋事故

幕府財政が窮地に立った享保4年(1719年)に、幕府は永代橋の維持管理をあきらめ廃橋を決めるが、町民衆の嘆願により橋梁維持に伴う諸経費を町方が全て負担することを条件に存続を許された。通行料を取り、また橋詰にて市場を開くなどして維持に務めたが文化4年8月19日 (旧暦)1807年9月20日)、深川富岡八幡宮の12年ぶりの祭礼日(深川祭)に詰め掛けた群衆の重みに耐え切れず、落橋事故を起こした。

橋の中央部よりやや東側の部分で数間ほどが崩れ落ち、後ろから群衆が次々と押し寄せては転落し死傷者・行方不明者を合わせると実に1400人を超え、史上最悪の落橋事故と言われている。この事故について大田南畝が下記の狂歌や「夢の憂橋」を著している。

永代と かけたる橋は 落ちにけり きょうは祭礼 あすは葬礼

なお古典落語の「永代橋」という噺もこの落橋事故を元にしている。南町奉行組同心の渡辺小佐衛門が、刀を振るって群集を制止させたという逸話も残っている。曲亭馬琴は「兎園小説」に「前に進みしものの、橋おちたりと叫ぶをもきかで、せんかたなかりしに、一個の武士あり、刀を引抜きてさし上げつつうち振りしかば、人みなおそれてやうやく後へ戻りしとぞ」と書いている。

その後

1897年完成の旧永代橋。

落橋事故後、橋の維持の重要性に気づいた幕府により再架橋されるが維新を迎えるころには相当傷んでいたようで1897年明治30年)、道路橋としては日本初の鉄橋として鋼鉄製のトラス橋が現在の場所に架橋された。1904年(明治37年)には東京市街鉄道(後の東京都電)による路面電車も敷設された(1972年昭和47年)11月に廃止)。

しかし橋底には木材を使用していたため、関東大震災の時には多数の避難民とともに炎上し、多くの焼死者、溺死者を出した。その後、1926年大正15年)に震災復興事業の第一号として現在の橋が再架橋された。

「震災復興事業の華」と謳われた清洲橋に対して、「帝都東京の門」と言われたこの橋は、ドイツの ライン川に架かっていたルーデンドルフ鉄道橋をモデルにし、現存最古のタイドアーチ橋かつ日本で最初に径間長100mを超えた橋でもある。