1968年, メキシコ

トラテロルコ事件

オリンピック前のデモへの虐殺

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update:2018/10/10 08:36:47
トラテロルコの大虐殺犠牲者に捧げられた石碑

トラテロルコ事件(もしくは、トラテロルコの虐殺作家エレナ・ポニアトウスカの著作トラテロルコの夜としても有名)とは、メキシコシティオリンピックの10日前、1968年10月2日メキシコメキシコ市トラテロルコ地区三文化広場で行われていた学生とさまざまな職業の市民による反政府集会が軍や警察によって鎮圧され、30人~300人の死者を出した事件である。

1968年はアメリカ合衆国におけるベトナム反戦デモ、フランスのパリの5月革命日本の全共闘、東大紛争など、世界規模での学生デモが頻発した年でもあった。高度経済成長の成果を国際的にアピールする舞台として、初のオリンピックを直前に控えていたメキシコ政府は「平和の祭典」の準備の裏で、治安を乱す恐れのあるデモに神経をとがらせ、結果軍による治安維持を名目とした大量虐殺というオリンピック精神と矛盾した方法でデモを弾圧した。

前提

上述のように、当時メキシコでは世界の潮流に呼応した学生デモが盛り上がりをみせ、さまざまな職業の市民をまきこんで膨張していた。大統領グスタボ・ディーアス・オルダはそれ以前から学生への弾圧姿勢を強めていたが、オリンピックを直前に控えた1968年になるとより強権的な弾圧にかわり、デモ参加者側に負傷者、死亡者がでる。

1968年7月、オルダ大統領はメキシコ国立自治大学(UNAM)に擲弾兵(バズーカー部隊)をおくり、教師、学生の区別なく逮捕する。これに対して学生側は6つの民主的な要求(1、政治犯の解放、2、擲弾兵の退去、3、警察長官の解任、4、彼らへの犯罪指定の撤回、5、死んだ学生の親族への補償、6、政治側の責任の境界をさだめること)を提示した。これによりいやおうなく両者間の緊張は高まった。

8月27日、いくつかのデモがおき、医者の総合団体が学生との連帯姿勢をうちだす。勢いづいた学生たちは市の中心部のカテドラル(大聖堂)に「赤と黒の旗」(アナーキズムの象徴)をかかげ、ひろく大衆に活動を印象づけることになる。

4日のち、オルダ大統領は「過剰な批判にこれまで我慢してきたが、これ以上は許さない」との旨の政府声明を発表する。オルダと親しかった在メキシコ米大使のフルトン・フリーマンは「大聖堂はアナーキズムによって深刻な攻撃を受けている」と米政府に状況をつたえている。

9月13日、学生は挑発をやわらげながらも活動は持続させようと、「沈黙のデモ(「Marcha del Silencio」)」を決行する。このデモは大衆の支持を得て、250000人もの参加者が静かに街を行進した。

ふくれあがるばかりの市民の異議申し立てに業をにやした政府はより強硬な実力行使によって、デモの鎮静化を図ろうとし、「ガレアナ オペレーション(Operación Galeana)」をたて、デモの鎮圧化にのりだした。