1881年, アメリカ合衆国

ガーフィールド大統領暗殺事件

2度めのアメリカ合衆国大統領暗殺

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update:2017/12/22 01:28:12

ガーフィールド大統領暗殺事件James A. Garfield assassination )は、1881年7月2日に、アメリカ合衆国の首都ワシントンD.C.で起こった現職のアメリカ大統領暗殺事件。

ガーフィールドは、第20代大統領としての就任から4ヶ月足らずのこの日午前9時半、チャールズ・J・ギトーに銃で撃たれ、11週間後の9月19日に死んだ。

アメリカ合衆国の大統領として暗殺された4人のうち、エイブラハム・リンカーンに次いで2人目であり、後にウィリアム・マッキンリージョン・F・ケネディが暗殺される。ガーフィールドの死にともない、チェスター・A・アーサーが大統領を継いだ。

大統領に対するストーキング

暗殺犯 C・J・ギトー

暗殺犯チャールズ・J・ギトーは色々な職業に手を出して失敗していた。神学、法律実務、集金、オナイダ・コミュニティ(キリストの再臨を信じる共同社会)などに関わり、その後興味は政治に向かった。

『グラント対ハンコック』というユリシーズ・グラントを支持する演説原稿を書き、ガーフィールドが1880年の大統領選挙共和党の指名を勝ち取った後に、それを改訂して『ガーフィールド対ハンコック』とした。結局ギトーはこの原稿を元に演説を行うことはなく、写しを数百部の印刷しただけだった。にも関わらず、原稿やその他の自分の行動が、大統領選におけるガーフィールドの勝利に大きく貢献したと信じた。

ギトーはその「重大な援助」に対して、大使の職に値する報償を受けてもよいと信じた。まずはウィーン、続いてパリの職を求める。1880年の大統領選挙の間、ニューヨーク市の政府機関の辺りをうろつき回り、その努力に対する報償を期待したが、当然何も得られなかった。それでも彼は依然として報償が貰えると考え、ガーフィールドが就任宣誓を行った翌日の3月5日にワシントンに到着し、ホワイトハウスに入り込む。3月8日には大統領に会い、自分の演説原稿の写しを置いていった。

次の2ヶ月間はワシントンを歩き回って過ごし、国務省とホワイトハウスの間を行ったり来たりし、閣僚や他の著名な共和党員に接触したが効果は無かった。金に困っていたギトーは、持っている唯一の服を毎日着ていたので次第にみすぼらしくなっていたが、それでも諦めなかった。

5月13日には、ついにホワイトハウスの待合室から締め出された。5月14日アメリカ合衆国国務長官ジェイムズ・G・ブレインから直接、二度と来ないように言われ、「おまえが生きている限り、二度とパリの領事の職のことを私に言うな」と言い渡される。

準備

ギトーの拳銃を描いた当時のイラスト

この接触によってギトーは「感謝の念を持たない大統領を殺すよう、神が自分に指示している」と知る。借金をしてリボルバーを買うことにしたが、武器のことはほとんど知らなかった。ただ大口径の銃が必要なことは分かっていた。

結局手持ちが足りず、負けてもらって買い求めた銃は、.44口径のブリティッシュ・ブルドッグ・リボルバーだった。その銃はグリップが木製か象牙製かを選べたが、象牙製の方が、暗殺後に博物館で展示されたときに見栄えが良いと思い、そちらを選ぶ。ただしそのリボルバーは回収されたにも関わらず、紛失され博物館に納められることはなかった。

次の数週間、ギトーは射撃訓練をして過ごす。最初は銃の反動でほとんど倒れてしまうところだった。それでも訓練を終え、大統領を付け狙い始める。まずはガーフィールドに宛てて手紙を書き、自分を追い払ったブレインを首にすること、さもなければ「おまえと共和党は災難に遭うことになる」と伝えた。この手紙は、以前ギトーがホワイトハウスに送り付けた文書と同様無視された。

ギトーは慎重に準備を続ける。前もってウィリアム・シャーマン将軍に「暴徒から守って」くれるよう求める手紙を書き、また他の手紙では、その行動が共和党の派閥間抗争を鎮めるために必要だと正当化した。6月はまる1ヶ月、ワシントンでガーフィールドを追いかけて過ごした。

あるとき、ガーフィールドが鉄道の駅でニュージャージーのロングブランチ海岸に保養にいく妻を見送るところに行き当たったが、ガーフィールド夫人は健康が優れず、彼女を動揺させたいとは思わなかったので、殺害を後日に回した。

暗殺

チャールズ・J・ギトーに撃たれた直後のジェームズ・ガーフィールド大統領とジェイムズ・G・ブレイン

ガーフィールドは夏の休暇で、7月2日にワシントンを離れる予定だった。その日ギトーは、ワシントンD.C.の6番街北西とコンスティチューション・アベニューの南西角にあったボルティモア・ポトマック鉄道の駅(現在は壊されている)で、大統領を待ち伏せた。待っている間に靴を磨かせ、うろうろ歩き、タクシーの運転手には後で刑務所に連れて行ってくれるよう頼んでいた。

ガーフィールド大統領は母校であるウィリアムズ大学で演説を行うことになっており、その途中で6番街の駅に来た。2人の息子ジェイムズとハリーを伴っており、また国務長官のブレインも同行していた。他に、陸軍長官であり、リンカーン大統領の長男ロバート・トッド・リンカーンが、大統領を見送るために駅で待っていた。

ガーフィールドはボディガードや警護特務部隊を連れていなかった。南北戦争時のエイブラハム・リンカーンという例外はあったが、この頃はまだ、大統領が特別の護衛を使うことは無かった。

大統領が駅に入ってくると、ギトーは彼の背後に進み、至近距離から引き金を引いた。ガーフィールドは「おゝこれは何だ!」と叫んだ。ギトーは再度発砲し、ガーフィールドは倒れた。1発はガーフィールドの腕を掠め、もう1発は背面から腰椎に入ったが、脊髄は外れた。

ギトーは拳銃をポケットに戻すと、外で待たせていたタクシーに向かって駅を離れた。しかし立ち去る前に警官のパトリック・カーニーに取り押さえられる。その時カーニーは、大統領を撃った男を逮捕したことで興奮し、警察署に着いた後までギトーの拳銃を抑えることを失念していた。

周囲では、事件に気が付き集まった群衆が「やつをリンチにしろ」と叫んだが、カーニーは数ブロック離れた警察署までギトーを連行した。ギトーは逮捕されても、勝ち誇ったような言葉を繰り返しつぶやいていた。

「私はストールワーツの中のストールワーツだ。……今やアーサーが大統領だ!」

このギトーの言葉は、短い間だが、チェスター・アーサーあるいはその支持者がギトーを使ってガーフィールド大統領を暗殺した、という根拠の無い憶測を生む。

“ストールワーツ”とは前大統領のグラントに忠実な共和党の派閥であり、ガーフィールドの派閥ハーフ・ブリードと強く対抗していた。アーサーは副大統領に選ばれたが、それは当時の他の副大統領たちと同様、政治的手腕や大統領への忠実さというよりも、派閥の制御という政治的な利点で選ばれていた。

ギトーは妄想の中で、そうした状況でガーフィールド大統領を殺害することが、共和党の2つの派閥の統合に必要な一撃だと確信していた。

ガーフィールドの苦闘と死

撃たれたガーフィールド大統領は、意識はあったがショック状態だった。銃弾の1発は体内に留まっており、医者はそれを見つけられずにいた。

大統領の息子のジェイムズとハリーは取り乱し、泣いていた。ロバート・トッド・リンカーンも動転し、父エイブラハム・リンカーンの死を思い出して、「この町ではどれだけ多くの時間を悲しみの中で過ごしたことか」と嘆いた。

ガーフィールドはホワイトハウスに移され、医師たちは今夜はもう保たないだろうと告げる。しかし大統領は死ななず、意識もはっきりしていた。翌朝には状態が好転し、医師たちは回復を期待し始めた。

こうして国中の長い寝ずの番が始まる。ガーフィールドの医師たちは速報を定期的に発行し、アメリカの大衆は1881年の夏の間中、大統領の安否を追い続けることになった。

容態は不安定で、熱は上がったり下がったりした。なんとか固形食を食べようとしたが、夏の大半はほとんどまともな食事が出来ず、流動食のみだった。

治療を担当した医師の一人
ウィラード・ブリス
ガーフィールドのシーツを取り替える様子

夏のワシントンは暑く、重傷者には負担だった。そこで海軍の技師が「エア・コンディショナー」を拵える。これは近代的なエアコンの初期の例のひとつであり、大きな箱に入った氷の上でファンを回して冷えた空気を病室に送る装置だった。装置はうまく働いて、気温を20度F(11度C)まで下げることができた。

そうした闘いの中、医師たちはガーフィールドの傷を消毒していない汚れた指や器具で探り、当てずっぽうで弾丸の場所を見つけ出そうとし続けていた。こんな状況にアレクサンダー・グラハム・ベルは、体内に留まっている弾丸を探すために金属探知機を発明する。しかしこの装置は、ガーフィールドが寝ている金属枠のベッドに誤反応してしまう。この頃まだ金属のベッド枠は珍しく、誤反応の結果は分からずじまいだった。

7月29日、ガーフィールドは治療中、一度だけ閣僚達と面会した。閣僚達は医師から動揺させるようなことを議論してはならないと、厳しく諭されていた。感染症のために病状が悪化しており、彼の心臓は弱っていた。また熱と激痛のため、ホワイトハウスで寝たきりになっていた。吐き気を抑えられず消化が苦痛になっていたので、200ポンド(90kg)以上あった体重は135ポンド(60kg)まで落ちていた。やがて敗血症と感染症が進行し、短期間幻覚を見るようになっていった。

ガーフィールドの傷を検討する医師団

9月6日、ガーフィールドはワシントンの暑さから逃れるため、ニュージャージーの海岸に移された。新鮮な空気と静穏さが回復を助けるかもしれないという、淡い期待からだった。

大西洋が見える窓の前に据えられたベッドの上で、大統領の状況は悪化していった。新たな感染症が進行し、狭心症の痙攣が起こる。そうしてついに、敗血症と気管支の肺炎、強い心筋梗塞(あるいは脾動脈瘤破裂)のために、1881年9月19日月曜日午後10時35分、ニュージャージー州ロングブランチのエルベロン地区で、大統領は死去した。49歳10か月。狙撃から死までの80日間で行った公務は、1通の犯罪者引渡し書に署名したことだけだった。

レイクビュー墓地での葬儀

死因

多くの歴史家や医学の専門家が、ガーフィールドを治療した医師たちがもっと有能であれば、ガーフィールドは生き残れたと信じている。医師たちは消毒していない指を傷口に入れて弾丸を探り、ある医師などは時にガーフィールドの肝臓に穴を開けさえした。肝臓は再生しうる数少ない臓器であり、これだけが死をもたらしたとは言えない。しかしこの医師は、おそらく連鎖球菌を大統領の体内に持ち込んでおり、抗生物質の無い当時は、致命的な敗血症を引き起こした可能性がある。

チェスター・アーサー

副大統領チェスター・アーサーは、19日の夜にガーフィールドが死んだという報せをニューヨークの自宅で受けた。報せを受けた時点ではまだ「私は、神よ、それが誤りだと期待している」と言ったが、電報による確かな情報がすぐに届けられた。

アーサーはニューヨーク最高裁判所判事の元で、大統領就任の宣誓を行った。続いてワシントンに行く前、弔問のためにエルベロンに向かう。ガーフィールドの遺体はワシントンに移され、議事堂ロタンダで2日間安置された後、クリーブランドに移されて、9月26日に葬儀が行われた。

裁判と処刑

ギトーの奇行

右手に銃を、左手に「仕事か生命か!」と書かれたメモを持つギトーの風刺画(1881年)。「模範的な求職者」というキャプションが書かれてあるのが分かる
ギトーを奇人に擬えた風刺画

大統領が死亡すると、殺人未遂容疑で逮捕されていたギトーは、1881年10月14日殺人罪で正式に起訴される。裁判は翌月14日にワシントンD.C.で始まり、裁判長はウォルター・スミス・コックスが務めた。

ギトー側の弁護士はレイ・ロビンソンとジョージ・スコヴィルであったが、ギトー自身が弁護士資格を有する事もあり、自らが弁護を行うと頑なに主張する事となる。

裁判中、ギトーは奇行を繰り返した。判事・証人・検察官、そして弁護団さえ口汚く罵り、自分の陳述書を叙事詩纏めた。ランダムに選んだ傍聴人には法的助言を求め、『ジョン・ブラウンの体』(南北戦争のときの北軍行進曲)を歌い、「ニューヨーク・ヘラルド」紙に自叙伝を口述させ、”30歳以下でキリスト教徒の淑女”という広告まで掲載した。これらの奇抜な振る舞いによって、ギトーはメディアのお気に入りとなっていった。

彼は裁判で、ガーフィールドの殺害は神の意思であり、自分は神の意思を実行する道具に過ぎないので無罪である、と主張した。また後任の大統領となったアーサーには「大統領にした事によって給料が増えたのだから、釈放してほしい」との手紙を送った。

彼の主張で一つ的を射ていたのは、「医師たちがガーフィールドを殺した。私は撃っただけだ」と、医療ミスを主張したことだった。

精神鑑定

ギトーの裁判は、被告の精神異常が検討された最初の有名な例となった。

裁判では、精神鑑定医のエドワード・チャールズ・スピツカが鑑定を行った結果、「今の所、 精神異常以外の何物でもないのは明らか」との言葉を残す。スピツカはギトーの状態を「先天的な脳の奇形」に拠るものと考えた。

一方、ワシントンD.C.の弁護士であるジョージ・コークヒルらは、ギトーを「精神異常」と判断したのは、大衆の願望を反映したものであるとして、次のように述べている。

彼は私より精神異常では無い。ギトーは何ら気が狂っていない。世間の前で格好良く、打算的な悪党で、洗練されたゴロツキの如く振る舞ったに過ぎなかった。本当は詰まらなくて、純粋で単純な人間。結局はその単調さに飽き、何か他の種類の興奮や悪評を求めて、事に及んだのである。

ギトーはなぜか釈放されると考え、釈放後の講演旅行や、1884年の大統領選挙には自ら出馬する計画を積極的に立てていた。同時にまた、自らと裁判を取り巻く報道合戦を楽しみ続けた。

陪審員が彼の神の啓示について納得できず殺人罪で有罪としたとき、彼は落胆し、「お前らは皆低級で、申し分の無い馬鹿野郎だ!」と喚き散らした。ありとあらゆる卑語を言い募り、警備員に抱えられながら独居房に消えていった。

1882年1月25日には有罪が確定した。ギトーは控訴したが、それも棄却され、1882年6月30日にワシントンD.C.で絞首刑になった。

絞首台の上でギトーは、自分で書いた「私は神の国に行く」と題した詩を朗誦した。その詩を歌うときにオーケストラの伴奏を要求したが、これは却下されている。

その後

アーサーは次の1884年大統領選挙で共和党の指名をブレインに奪われ、ブレインは民主党グロバー・クリーブランドに敗れた。

ガーフィールドの追悼

ガーフィールドの遺骸の側を通る弔問者

皮肉にもガーフィールドの暗殺は、1883年1月16日のペンドルトン公務員改革法の成立を後押しした。ガーフィールドは就任演説で公務員改革を要求し支持していた。そのためこの公務員改革法案は、大統領に対する記念碑的なものとして、倒れた後に成立した。

議事堂側にあるガーフィールドの記念碑
ガーフィールド記念館にある廟

6番街の鉄道駅はその後取り壊された。この場所には現在、ナショナル・ギャラリーが建っている。ガーフィールドが撃たれた場所には銘盤や記念の標識は無いが、数ブロック先の議会議事堂の敷地南西隅にガーフィールドの記念銅像が立っている。

ニュージャージー州エルベロンの市民によって建てられたガーフィールド茶館( Garfield Tea House )は、この町にガーフィールドを運ぶために特別に敷かれた鉄道に使われたレールを使っており、現在もロングブランチに建っている。

大統領の危機への対応

「大統領に職務遂行能力が無い状況」という問題は、暗殺後も対処されなかった。

アメリカ合衆国憲法第2条第1節第6項には、「大統領がその権限および義務を遂行する能力を失った場合は、その職務権限は副大統領に帰属する。」とうたっているが、能力を失ったとはどういうことか、あるいは大統領が能力を失ったということをどう判定するかについては何も規定が無かった。

ガーフィールドは80日間病床にあり、1通の犯罪者引渡し書に署名すること以外、その職務を何も果たせなかった。しかし19世紀の連邦政府は夏の間実質的に閉鎖状態だったため、特に問題になるようなことは無かった。

ガーフィールドが治療中、議会は開催されておらず、大統領がすることもほとんど無かった。国務長官のブレインは内閣に、アーサーが大統領職を代行すると宣言するよう示唆したが、アーサーを含め閣僚たちは、大統領の危機を利用していると思われたくないと、拒否した。ただしもしガーフィールドが12月まで生き延びた場合、議会が招集され、内閣はブレインの考えを採用することを強いられた可能性があった。

議会は、大統領が生きていてガーフィールドのように能力を奪われていた場合に、どうすべきかという問題を扱ったことが無かった。そればかりかこの38年後、ウッドロウ・ウィルソン大統領が卒中を患って数日間昏睡状態となり、任期の最後の1年半は部分的に麻痺して片目が見えなかった時も、何もしなかった。

1967年アメリカ合衆国憲法修正第25条で、大統領が職務不能になった場合の手続きを定めたのが最初だった。

議会は大統領の保護についても、何の手段も採らなかった。 ガーフィールドから20年後、ウィリアム・マッキンリー暗殺される。この暗殺によりついに、議会は大統領の保護に動く。元々偽札の防止のために設立されていた「財務省秘密検察局」に、大統領の警備を委託したのだ。この偽札対策の秘密検察局は、後にアメリカ合衆国シークレットサービスとなる。