1668年, 日本

追腹一件

江戸時代初期の殉死と処罰

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update:2017/12/18 22:51:29

追腹一件(おいばらいっけん)とは、寛文8年(1668年)におこった宇都宮藩での殉死事件。

概要

奥平忠昌
奥平昌能

寛文8年2月19日1668年3月31日)、下野国(いまの栃木県宇都宮藩藩主奥平忠昌が、江戸汐留の藩邸で病死した。

忠昌の世子であった長男の奥平昌能は、忠昌の寵臣であった杉浦右衛門兵衛に対し「いまだ生きているのか」と詰問した。問われた杉浦はこれが原因でただちに切腹した。

家臣主君の死後、その後を追う風習は当時は「追腹(おいばら)」と称され、家臣が主君に殉じるのは、「一生二君に仕えず」とする武家社会モラルに由来していた。当初は戦死の場合に限られていたが、のちには病死であっても追腹が盛行し、江戸時代初期に全盛期をむかえた。

当時江戸幕府は4代将軍徳川家綱のもと文治政治への転換を進めており、この事件に先立つ寛文3年(1663年)には殉死禁止令を発布していた。そのような状況で起きた殉死に対し、幕府は昌能・杉浦の双方の行為を、いずれも殉死制禁に対する挑戦行為ととらえた。

御連枝の家柄とはいえ、奥平家に対し2万石を減封し、出羽山形藩9万石への転封に処した。また殉死者杉浦の相続者を斬罪に処するなど厳しい態度で臨んだ。これにより、殉死者の数は激減したといわれる。

なお、忠昌没後14日目には、奥平内蔵允が、法要への遅刻を「腰抜け」となじった奥平隼人を武士の一分を立てるためと斬りつけた事件(興禅寺刃傷事件)がもとで、内蔵允の子奥平源八らによって江戸牛込浄瑠璃坂での仇討ち事件(「浄瑠璃坂の仇討」)がのちに起こっている。