1939年, フィンランド・ソ連

冬戦争

大国ソ連からフィンランド独立を守る総力戦

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update:2017/12/19 20:53:47

冬戦争talvisota )は、第二次世界大戦勃発の3ヶ月後1939年11月30日ソビエト連邦フィンランドに侵入した戦争。フィンランドはこの侵略に抵抗し、多くの犠牲を出しながらも独立を守った。

両国の戦争が1941年6月に再開されたため、第1次ソ・芬(ソ連・フィンランド)戦争とも言う。なお、後続の戦争は第2次ソ・芬戦争、あるいは継続戦争と称される。

概要

フィンランドの国境線全体から侵攻する赤軍の図

1939年8月23日の独ソ不可侵条約によって勢力圏の再配置が約束された後、ソ連はドイツのように自らの勢力圏確保のためにバルト三国とフィンランドへの圧力を強め軍事的な行動を行っていく。バルト三国に対し軍事的圧力を見せつつ最後通牒を送り赤軍の軍事基地を置かせると、フィンランドにも同様に圧力をかけつつ軍事基地の提供を求めた。また、レニングラードにほど近いフィンランドの国境線を30km後退させることも要求するが、フィンランド側は拒否したためソ芬間の交渉は決裂した。

ソ連はフィンランド軍から砲撃を受けたとして、1939年11月30日にフィンランドに宣戦布告し侵攻を開始。明らかな侵略行為に対し国際社会から非難を浴びたソ連は、1939年12月14日国際連盟から追放されるが、戦争を終結させる上では何らの実効性も持たなかった。ソ連の指導者ヨシフ・スターリンは、年末までにフィンランド全土を制圧できると考え、フィンランド軍のおよそ3倍の兵力を投入したが、結局マンネルヘイム元帥率いるフィンランド軍の粘り強い抵抗の前に非常な苦戦を強いられた。

スペインイギリスフランスなどは、北欧の鉄鉱石を抑えるための名目としてフィンランドに対する支援をノルウェーなどスカンジナヴィア半島北部を経由して行おうとした。しかし、この計画に対しノルウェーは中立の立場を取って通行を拒否したために計画は難航し、結局これらの支援が本格的にフィンランドに到達することはなかった。

フィンランドは1940年3月まで戦い抜くが、最終的に国土の10%、工業生産の20%が集中する地域をソ連に譲り渡すという屈辱的な条件の下に講和条約を結んで戦争を終結させた。一方でこの戦争でのソ連軍の弱体ぶりが諸外国に知れ渡り、特にアドルフ・ヒトラーソ連侵攻の決断に影響を与えたと言われている。

ナチス・ドイツは終戦から1ヶ月に満たない内に、デンマークやノルウェーに侵攻し占領に成功したため、連合国は冬戦争後のフィンランドを支援できなかった。フィンランドはまたスウェーデンを頼ることもできず、ドイツと接近することになった。

この戦争でのソ連の立場に関しては様々な論がある。ソ連はレニングラードの安全のためフィンランドのロシア帝国への編入の際にフィンランド自治政府へ委譲された南部の地域を取り戻そうとしたというものと、ソ連はフィンランドに傀儡政権の共産政府を立てて社会主義化しようとしていたものの二つに分かれる。

ソ連は開戦直後にフィンランド民主共和国という傀儡国家を建国し、フィンランド民主共和国を唯一のフィンランド政府として、損害が大きくなるまでフィンランド本国の政府と交渉しないでいることから、後者の意見が主流である。

戦争の背景

フィンランドは長らくスウェーデン王国の一部として統治されてきた。フィンランドは1809年ロシア帝国により征服されたが、第一次世界大戦末のロシア革命に乗じて1917年12月6日に独立を宣言した。

独立に続くフィンランド国内の内戦では、革命ロシアに支援されたフィンランド赤衛軍に対し、フィンランド白衛軍ドイツ帝国の支援を受けた。戦闘ではドイツが訓練したフィンランド人の航空機部隊とドイツ帝国が派遣した1個師団が決定的な役割を演じた。その後、ドイツ帝国が第一次世界大戦に敗北したことで、フリードリヒ・カール・フォン・ヘッセン=カッセルを君主とした親独フィンランド王国の樹立は挫折したが、内戦は白衛軍の勝利に終わった。

その後のソ連とフィンランドの関係は、先の内戦でフィンランド赤衛軍を革命ロシアが支援していたことから敵対的な緊張状態にあったが、1932年にソ連はフィンランドと不可侵条約を締結し、1934年に再度、1945年までを期限とする同協定の継続を確認した。もっとも、ソ連内部ではフィンランドを敵と見なしており、1935年ニコライ・エジョフの演説では、ドイツ、チェコスロバキア、ポーランドに並び、フィンランドが敵対国として挙げられている。

ロシア革命後の列強による対ソ干渉戦争とスターリンの領土的野心は東ヨーロッパでのソ連の安全保障体制の確立を押し進めた。また、ソ連第二の大都市であるレニングラードの港はフィンランドとエストニアに挟まれたフィンランド湾に面しており、フィンランド湾を軍事的に支配することはソ連にとって重要だった。

1939年8月23日、ソ連とナチス・ドイツの間に相互不可侵条約が調印された。この協定には、独ソによる東欧諸国の分割に関する秘密議定書が含まれており、この中でドイツはフィンランドがソ連の勢力圏に属することを認めた。同年9月1日、ドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が始まると、これに呼応して9月17日にソ連が東よりポーランドを挟撃して、9月20日までにポーランド東半分を支配下に置いた。ポーランド政府は降伏しなかったが、10月1日までにドイツ軍とソ連軍はポーランド全域を完全に制圧した。

バルト三国とフィンランドは独ソ不可侵条約でソ連の勢力範囲とされた。9月29日にエストニア、10月5日ラトビア10月10日にはリトアニアが、領土内にソ連軍の駐屯する基地の設置を認めさせる自動延長の相互援助条約を強制的に結ばされた。ソ連にとってはロシア革命の失地回復を意味したが、独立国である三国にとっては事実上の属国化だった。このような中でソ連はフィンランドにも軍の駐屯などを要求した。

ソ連の要求

1938年4月からソ連は非公式にフィンランドに対してフィンランド湾内の島々の租借を要求していたが、フィンランド政府は拒否していた。ソ連によるポーランド侵攻後の1939年10月11日、モスクワで行われたモロトフ外相からフィンランドのパーシキヴィ外相に伝えられた提案は次のようなものである。

  • フィンランド主要部を守る防衛陣地帯マンネルハイム線の撤去。
  • フィンランド南西部バルト海に面したハンコ半島の30年間の租借と基地の設置。
  • フィンランド湾に浮かぶ島嶼の30年間の租借と基地の設置。
  • カレリア地峡付近の国境線をフィンランド側に30km後退させる領土割譲。

特にハンコ半島への駐留はフィンランド国内でのソ連軍の移動を認めることになり、その移動ルートは首都ヘルシンキ付近を通過するもので、フィンランドとしては到底認められるものではなかった。さらに国境線から32kmに位置するレニングラードをフィンランド領内の長距離砲の脅威から守るためとして要求されたカレリア地峡の領土割譲は、フィンランドにとって文化的、経済的にも非常に大きい損失となるものだった。この会談に先立ち、スウェーデン・ノルウェー・デンマークのモスクワ駐在公使がモロトフ外相宛てに覚書を提出しフィンランドの独立と中立を危うくする行為をおこなわないよう要望した。しかし、モロトフは覚書の受理を拒否した。

10月21日、フィンランド国家評議会はソ連側の要求を討議し、譲歩案の作成と不測の事態に備えるための国防公債募集を決定した。この募集には、予定金額の5億マルッカに対して、7億マルッカの応募があった。

10月23日にモスクワで交渉が再開され、フィンランド側は譲歩案としてフィンランド湾内でソ連に近い位置にあるいくつかの島々の譲渡やカレリア地峡付近の一部の国境線の後退をソ連側に提案したものの、11月3日に交渉は決裂した。

戦争の経緯

勃発

冬戦争でのフィンランド軍兵士

1939年11月26日午後、カレリア地峡付近の国境線で赤軍将兵13名が死傷する砲撃事件が発生したとソ連側から発表された。この砲撃はマイニラ砲撃事件と呼ばれており、ソ連はこの砲撃をフィンランド側からの挑発であると強く抗議した。実際はソ連が自軍に向けて故意に砲撃したのをフィンランド軍の仕業にして非難し、この攻撃を国境紛争の発端に偽装したものであったことが近年明らかになったソ連時代の機密文書によっても裏付けられている。しかしソ連は同日、ソ芬不可侵条約の破棄を通告。11月29日に国交断絶が発表された。

11月30日、ソ連は赤軍の23個師団45万名の将兵、火砲1,880門、戦車2,385輌、航空機670機でフィンランド国境全域で攻撃開始。迅速にマンネルヘイム線へと進撃した。

12月1日、開戦当日の夕方にはソ連軍に占領された国境地帯の町テリヨキ、現在のゼレノゴルスキ (サンクトペテルブルグ)で、1918年の内戦で敗れソ連に亡命していた共産党員オットー・クーシネンを首班とするフィンランド民主共和国が樹立された。テリヨキの住民は少数の共産主義者を除き、ソ連軍の到達前に全員が脱出している。

この政府は新たなフィンランド人民の代表としてソ連に承認された。ソ連はこのクーシネン政権の掲げる「白色富農政権からの人民の解放」への援助要請を受け、今後この政府以外とのいかなる交渉も行わないことを声明した。つまり既存のフィンランド政府との交渉を今後一切行わない事を宣言した。これは第三国による調停斡旋を全て拒否するもので、事実上ソ連の傀儡政権のこの国の存在意義は、政治的には現フィンランド政府を外交的に抹殺すること、軍事的にはフィンランド国内の社会主義者・共産主義者を脱走させ、新たに組織したフィンランド赤軍に取り込むことだった。しかし、フィンランド国内の反乱分子の構成は1918年以来共産党が非合法化されていたうえ、開戦直前に予防拘禁が行われたために大して成功しなかった。合法的活動をしていたソ連寄りの社会主義者も親ソ的な活動はほとんどなかった。

ソ連やフィンランド政府の予想に反し、フィンランドの社会主義者共産主義者のほとんどはこのソ連の侵略を支持しなかった。また、共産主義者の多くはフィンランド国軍の徴兵対象から外されていたにも関わらず、フィンランドの独立の維持のために戦った。

フィンランドの多くの共産主義者が1930年代に「社会主義建設」のためにソ連に移住したが、多くがスターリンによる大粛清の犠牲になるという結末を迎え、ソ連に対する幻滅が広がっていただけでなく、フィンランドの社会主義者の間にはむしろ敵意さえ生まれていた。「フィンランド民主共和国」首班であるオットー・クーシネン個人に対する評判も芳しくなく、ヴィドクン・クヴィスリングと比較してもさらに悪いといわれていたほどだった。

彼らからソ連の実体を知ったフィンランド軍は最後まで戦う覚悟のある兵士が多く士気も非常に高かった。これに対しソ連軍は赤軍大粛清の影響で将校が骨抜きの状態で兵士が奴隷同然の扱いだったため士気は低下していた。

雪中の奇跡

フィンランドのスキー兵
フィンランド兵

開戦当初のフィンランド軍は後に救国の英雄と称えられるマンネルヘイムを総司令官とし、自動車化された16万人の戦力を保有していた。ただし、広い国土に分散して配置されており兵力的には圧倒的に劣勢のため、遅滞戦術、焦土戦術ゲリラ戦で対抗した。

実働部隊としては森林地帯の地理に熟知し年少より狙撃に慣れ親しんだ者を集め、白色の服などでカモフラージュしたスキー部隊が活躍した。ほかにもスペイン内戦を起源とする即席のガソリン手投げ弾火炎瓶が製造され、ソ連戦車に対し大きな効果を挙げた。

当時のソ連外相のモロトフをこの爆弾で文字通り「暖かく」迎えてやろうという意味を込めて「モロトフ・カクテル」と呼ばれた。これはモロトフ外相がフィンランドへの空爆を「人民にパンなどを投下している」などと発言したことに対する皮肉と言われているが、真相は定かではない。

ドイツ軍による物量圧倒戦(ポーランド侵攻)を自らの手により再現することを夢見ていたソ連は戦争勝利を楽観していた。フィンランド侵攻前の軍事会議では万全を期して2-3ヵ月分の確保が必要とする意見もあったが少数意見として黙殺され1~2週間分の弾薬供給で十分とされた。冬季戦闘の準備はまったく不十分で、特に森林戦を想定しておらず鈍重で攻撃されやすい車輌を多く使用していた。1939年~1940年の冬の気象条件はマイナス40度になる日が連日続くなど極寒で、フィンランド軍に有利に働いた。一説によると、ソ連軍戦死者の80%は補給を絶たれた末の凍死と言われている。

また、スターリンの大粛清により赤軍将校が多数処刑されたことで組織が骨抜きになっていたため、数に任せた第一次世界大戦さながらのばらばらな銃剣突撃を繰り返すだけという無能無策ぶりをさらけ出していた。森の中の道を進むしかないソ連軍部隊は白い服装で隠れていたフィンランド兵の格好の餌食となり大損害を被った。このような待ち伏せ攻撃はモッティ戦術といわれる包囲戦術に発展した。スキー部隊等を活用し、行進するソ連部隊の先頭後尾を叩いて身動きを取れなくし包囲殲滅していく戦術である。

フィンランド軍の武器、弾薬、装備は極度に不足していた。開戦時、基礎訓練を修了した兵士にだけ軍服と武器が支給され、残りの者は自前で武器を調達し軍服を製作しなければならなかった。これらの自作の軍服には当時のフィンランド政府の首相アイモ・カヤンデルにちなんで「カヤンデル・モデル」という愛称がつけられた。またソ連軍から鹵獲した装備、武器、弾薬が積極的に再利用された。フィンランド独立後に小銃口径を変更しなかったため、ソ連の弾薬がそのまま使えるということも幸いした。

ソ連はレニングラード軍管区の4個軍を作戦に投入した。第7軍はカレリア地峡の国境要塞線を突破して首都ヘルシンキを目指し、第8軍は第7軍の支援を担当した。第9軍はフィンランドを南北に分断するためスオムッサルミ攻略を目指し、第14軍はラップランドへと進撃した。11月30日、ソ連空軍は首都ヘルシンキを空爆し、赤軍はフィンランドへ侵攻開始。フィンランド最高司令官マンネルヘイムは第9師団に赤軍第9軍への反撃を命じ第16連隊主力の独立作戦集団を編成しタルヴェラ大佐に指揮を任せラドガ湖へ進撃中の赤軍第8軍に反撃を命じた。

赤軍第7軍の第49師団はカレリア地峡マンネルヘイム線のタイパレ要塞線突破を試みたが、フィンランド陸軍第10師団の反撃で攻撃は失敗し甚大な被害を受けた。ラドガ方面ではトルヴァヤルヴィに進出した赤軍第8軍の第139師団がタルヴェラ作戦集団に包囲され1000名以上の犠牲者を出し敗走。そこで第8軍はコッラー河を渡河して守りの手薄なロイモラへ4個師団と1個旅団の大戦力を投入し突破作戦を開始した。しかしコッラ防衛陣地のフィンランド軍第12師団の猛反撃により攻勢は足止めされ第8軍は進撃停止を余儀なくされた。

ラーテ街道(ラッテ林道)を進撃中だった赤軍第9軍の第163師団はフィンランド軍第9師団に包囲され孤立した。こうして赤軍の攻勢は全戦線で食い止められ一部の部隊は分断され包囲殲滅の危機に晒されていた。戦果を焦ったレニングラード軍管区司令官メレツコフは12月16日マンネルヘイム線への総攻撃を再開。赤軍第7軍がスンマ要塞線への攻撃を開始したが、フィンランド軍の守りは固く甚大な損害をうけ総攻撃は失敗。その後も第7軍はマンネルヘイム線への総攻撃を繰り返したがことごとく撃退され損害のみが増え続けた。

一方赤軍第9軍は包囲された第163師団救援のため第44機械化師団を派遣した。第44機械化師団はラーテ街道で雪に阻まれ立ち往生している最中に第9師団の奇襲を受け壊滅、完全に孤立した第163師団も殲滅され12月9日から開始されたスオムッサルミの戦いはフィンランド軍が完全勝利した。赤軍第9軍は戦死・行方不明2万4000人の壊滅的敗北を喫した。相次ぐ惨敗に驚愕したスターリンは攻勢中止を命令した。

国際社会の反応

曳光弾が飛び交うフィンランドとソ連の国境線

国際世論は圧倒的にフィンランドを支持していた。当時、第二次世界大戦は「まやかし戦争」と呼ばれる小康状態にあったため、実際に戦闘が行われている冬戦争に注目が集まった。イギリスでは労働党が1940年に配布したパンフレット『フィンランド-スターリンとヒトラーの犯罪的陰謀』の中で「赤いツァーリ(スターリン)は帝政ロシア以来の伝統的帝国主義を推進し民主主義の小さな拠点に対して侵略戦争をおこなっている」とソ連の行為を非難した。アメリカ合衆国はフィンランドに対し1000万ドルの借款を提供する一方で、ソ連に対し軍需物資供給を遅らせる行為(精神的禁輸)を開始した。

また、アメリカカナダに移住したフィンランド人の中には祖国に戻り義勇兵となった者もいた。後に俳優となったクリストファー・リーもその一人である。隣国スウェーデンからは軍事物資、資金、人道支援のほか、9千人余りの義勇兵が派遣された。ソ連軍戦闘機は彼ら義勇軍の乗った輸送列車も攻撃した。

フランスでは反ソ感情が高まり、ダラディエ首相はドイツに石油を供給しているソ連のカフカース地方をトルコの協力を得て爆撃する計画をイギリスに提案している。しかし英仏両国は対独戦の最中でありソ連にも宣戦布告をして戦線を拡大することは避けたく、イギリスはこの提案を拒否した。後にモスクワ講和条約が結ばれるとダラディエはフィンランド支援失敗の責任を追及され辞職に追い込まれた。

ドイツは外務省が冬戦争の開始前から秘密議定書の内容を遵守する事を明確にし、全ての在外外交官に対してソ連側の立場を支持するように訓令しており、もはや頼みにならなかった。しかし、他に頼みとするスカンジナヴィア諸国や連合国の各国政府の反応もフィンランドへの積極的な支持とはいかなかった。戦争に巻き込まれる懸念のほか自国の戦争準備に手一杯であり、傍観するか中立を貫いた。しかし、ヘルシンキにいた外国の特派員が「雪中の奇跡」としてフィンランドの予想外の善戦が報じられた。

1940年2月、英仏はポーランド亡命政府の部隊も加えた連合軍でノルウェーのナルヴィク港に10万人の兵士を上陸、スウェーデン経由でフィンランドを支援することを名目にドイツへの鉄鉱石の輸出を停止させる作戦計画で一致した。しかしノルウェーとスウェーデンはこれを拒否したため作戦は滞った。スウェーデンは冬戦争で中立を宣言していたわけではないが、スウェーデンが何らかの形でフィンランド側に加勢すれば直ちにドイツ・スウェーデン両国が戦争状態に入るだろうとドイツ政府から開戦直後に警告されており、連合国にもドイツやソ連にも与しなかった。

首相ペール・アルビン・ハンソンは、他国の軍隊を通過させることは国際法上の中立性を破ることになるという理由を表明するだけでなく、フィンランド政府の再三に渡るスウェーデン正規軍の派遣要請も頑なに拒絶し最終的には武器・弾薬供給も停止された。

冬戦争末期、フィンランドからの要請があれば連合国より50,000名の兵士が派遣されることになっていたが、実際に向かったのは6,000名で、残りはスカンジナビア半島北部の鉄鉱石産出地域の防衛の任に就くことになっていた。戦後明らかになったことによれば、連合国の遠征部隊の司令官はソ連軍との直接的な戦闘は避けるように命令されていた(これにはイギリス政府のウィンストン・チャーチルの意向があった)。このように他国からの支援のほとんどは、全く不十分であるか、時期を逸していた。

また、世界各国から兵器が供与されたが旧式兵器ばかりで数も少なく、フィンランドを決定的に有利にする支援はついに行われなかった。

停戦

冬季装備も満足でなかったソ連軍は各地で撤退を余儀なくされていた。スターリンは小国相手に無様に惨敗する自軍からの報告に怒り狂い、敗北の責任は大粛清で赤軍の優秀な将官が失われたことに求めず、ソ連の国防相(国防人民委員)であるクリメント・ヴォロシーロフに擦り付け彼の責任を厳しく追及した。ヴォロシーロフはロシア革命以来のスターリンの友人だったが、この時の侮辱には我慢できず、遂に目の前の独裁者に向かって「敗北について責められるのはあなたの方だ。あなたは我が軍の優秀な将校を処刑したのだ。」と怒りの声をあげて反論した。

深夜にスターリンの別荘で開かれていた酒宴で起こった両者の罵り合いは、激高したヴォロシーロフが子豚の丸焼きをのせた大皿をひっくり返すまで続いた。ヴォロシーロフはこの後に国防人民委員を解任された。周りの者は誰しもこれでヴォロシーロフの政治生命も終わったと予想していたが、引き続きクレムリンで政治家として生き残り、後にソビエト最高会議幹部議長に就任している。

1940年1月、初期の敗戦の責任を取らされる形でヴォロシーロフは罷免され他にも数名の将校が銃殺された。新しい総司令官にセミョーン・チモシェンコが任命され態勢の立て直しが図られた。12月末には第7軍に加えて第13軍が増援として送られており、この2個軍はさらに砲兵などの増援部隊を加えて北西正面軍として再編制が行われていた。これらの兵力をもってカレリア地峡のマンネルヘイム線に対して、2月1日に攻撃が再開された。2月10日までは空襲と砲撃を行い、2月11日より軍の前進が開始された。ソ連側は多大な死傷者を出しながらも圧倒的な物量により鉄壁だったマンネルヘイム線の突破に成功した。

ソ連指導部は戦争開始から1ヶ月も経たないうちにこの戦争の落としどころを考え始めていた。死傷者の増加や戦争の長期化、泥沼化はソ連国内の政治課題ともなっていた。また春の訪れと共にソ連軍は森林地帯のぬかるみにはまる危険があった。ソ連は攻撃と並行し1月12日に和平交渉の再開をフィンランドに提案した。1月末にはスウェーデン政府を経由した和平の予備交渉にまで至っていたが、フィンランド政府はソ連の提示した厳しい講和条件に躊躇せざるを得なかった。

しかし、スウェーデン王グスタフ5世がフィンランド支援の正規軍を派遣しないことを公式表明したことに加え、2月末までにフィンランド軍の武器・弾薬の消耗が激しく、マンネルヘイム元帥はこのまま戦争を継続した場合には敗北必至でフィンランドの独立さえ危うくなるという政治判断から講和による決着を考えていた。これを受け政府は2月29日より講和の交渉再開を決定した。同日、フィンランド第二の都市であり首都ヘルシンキへの最後の防衛拠点であるヴィープリに対してソ連軍が殺到しており、もはや猶予はなかった。

和平交渉の結果、両国は3月6日に停戦協定に達した。4ヶ月間の戦闘でソ連軍死者は12万7千人~20万人以上、ニキータ・フルシチョフは100万人としている。

フィンランド側は約2万7千名を失い、さらに講和の代償も決して安いものではなかった。

モスクワ講和条約

フィンランドが失った領土(赤色)

1940年3月12日、モスクワ講和条約が結ばれた。フィンランドは国土面積の10%に相当するカレリアの割譲を余儀なくされ、カレリアは産業の中心地である第二の都市ヴィープリを含んでいた。カレリアの住民はソ連への帰属を拒み、全人口の12%にあたる42万2千人がソ連側が示した10日間の期限内に故郷を離れて移住するか難民となった。その他にも、サッラ地区、バレンツ海のカラスタヤンサーレント半島、およびフィンランド湾に浮かぶ4島を割譲し、さらにハンコ半島とその周辺の島々はソ連の軍事基地として30年間租借されることとなり、8,000人の住民が立ち退いた。

フィンランド人はこの過酷な講和条件に衝撃を受け、戦い続けた場合に失った領土よりも多いのではないかとさえ言われたが、これによってフィンランドは戦争を停止し国力を回復することになる。

影響

ソ連の傀儡政権だったフィンランド民主共和国はモスクワ講和条約が結ばれた1940年3月12日に、「フィンランド民主共和国政府は無用な流血を避けることを選んだ」としてソ連の構成国であるカレロ=フィン・ソビエト社会主義共和国に統合された。ソ連はカレリア半島を得て、フィンランド湾のいくつかの島を占領でバルト地方に対する圧力をさらに高めた。

1940年6月にはバルト海岸を軍艦によって閉鎖しバルト諸国に侵攻、国内にソ連赤軍の基地をおいていたバルト諸国はそこから攻撃された。これによってソ連は、冬戦争では成し遂げられなかった戦争相手国の数日間での占領を達成した。軍事的圧力下でバルト諸国は圧倒的な賛成多数によりソ連への編入を決定し半月を持たずにソ連領となった。

一方フィンランドは独立は守ったものの、過酷な講和条約の下で多くのフィンランド人が領土の奪還を誓った。フィンランドは国際社会に復帰しようとするが、ドイツのデンマークとノルウェー侵攻で連合国との連絡路を失い、スウェーデンの同盟支援すら得ることができず国際的に孤立する。このためフィンランドは軍事援助を受けることを目的にドイツに接近し軍事基地の提供などを行った。

1年少々の休戦期を経てドイツのバルバロッサ作戦とともに1941年にフィンランドは再びソ連と戦争に入った。これは継続戦争と呼ばれている。その優れた軍事、政治手腕でフィンランドを亡国の淵から救ったマンネルヘイム元帥は継続戦争も再び総司令官として戦うことになった。