1959年, ソビエト連邦

ディアトロフ峠事件

雪山で男女9人の謎の死を遂げる

カテゴリー
読み応え
年代
国・地域
キーワード
update:2017/12/18 22:44:57

ディアトロフ峠事件とは、1959年2月2日の夜、当時のソ連ウラル山脈北部でスノートレッキングをしていた男女9人が不可解な死を遂げたことで知られる事件である。事件は、ホラート・シャフイル山(マンシ語で「死の山」の意)の東斜面で起こった。

事件があった峠は一行のリーダーであったイーゴリ・ディアトロフ(ジャートロフ、ジャトロフとも)の名前から、ディアトロフ峠と呼ばれるようになった。

当時の調査では、一行は摂氏マイナス30度の極寒の中、テントを内側から引き裂いて裸足で外に飛び出したとされた。遺体には争った形跡はなかったが、2体に頭蓋骨骨折が見られ、別の2体は肋骨を損傷、1体はを失っていた。さらに何人かの犠牲者の衣服から、高い線量の放射能が検出された。

事件は人里から隔絶した山奥で発生し、生還者も存在しないため未だに事件の全容について不明な点が残されている。当時のソ連の捜査当局は “抗いがたい自然の力” によって9人が死に至ったとし、事件後3年間にわたって、スキー客や探検家などが事件の発生した地域へ立ち入ることを禁じた。

事件発生まで

エカテリンブルクの墓地にある追悼碑

一行は男性8名女性2名からなり、スヴェルドロフスク州内のウラル山脈北部においてスキーでのトレッキングを計画していた。グループの多くはウラル科学技術学校、現在のウラル工科大学の生徒か卒業生だった。メンバーは次の通りである。

  1. イーゴリ・アレクセーエヴィチ・ディアトロフ、一行のリーダー、1936年1月13日生まれ。
  2. ジナイダ・アレクセーエヴナ・コルモゴロワ、1937年1月12日生まれ。
  3. リュドミラ・アレクサンドロヴナ・ドゥビニナ、1938年5月12日生まれ。
  4. アレクサンドル・セルゲーエヴィチ・コレヴァトフ、1934年11月16日生まれ。
  5. ルステム・ウラジーミロヴィチ・スロボディン、1936年1月11日生まれ。
  6. ユーリー(ゲオルギー)・アレクセーエヴィチ・クリヴォニシチェンコ、1935年2月7日生まれ。
  7. ユーリー・ニコラエヴィチ・ドロシェンコ、1938年1月29日生まれ。
  8. ニコライ・ウラジーミロヴィチ・チボ=ブリニョーリ、1935年7月5日生まれ。
  9. セミョーン(アレクサンドル)・アレクサンドロヴィチ・ゾロタリョフ、1921年2月2日生まれ。
  10. ユーリー・エフィモヴィチ・ユーディン、1937年7月19日生まれ、2013年4月27日没。

一行の最終目的地は事件発生現場から10キロメートル北のオトルテン山に設定された。そこまでのルートは、事件当時の季節では踏破の難易度は極めて高いと推定されたが、一行の全員が長距離のスキー旅行や山岳遠征の経験を有しており、この探検計画に表立って反対するものはいなかった。

1月25日、スヴェルドロフスク州北部の中心地イヴデリに一行の乗った列車が到着した。彼らはトラックをチャーターしてさらに奥地に入り、イヴデリから約80キロメートル北方にある最後の有人集落ヴィジャイに到着、そして1月27日いよいよヴィジャイからオトルテン山へ向け出発した。しかし翌日ユーリー・ユーディンが急病に侵され途中離脱、一行は9人になった。

ユーディンと別れて以降、生前の一行と遭遇した人間は現在に至るまで見つかっていない。ここから先の一行の行動は、最後のキャンプ地で発見された日記やカメラに撮影された写真などを材料に推定されたものである。1月31日、未開の原生林を北西方向に進んできた一行はついに山麓まで到達し、本格的な登山準備に入る一方で下山するまでに必要と考えられる食料や物資を取り分け、余剰となった分を帰路に備えて周囲に残置した。

2月1日、一行はオトルテン山へ続く渓谷へと分け入った。適した場所で渓谷を北に越え、そこでキャンプを張ろうとしていたようだが、悪天候と吹雪視界の減少によって方向を見失い、西に道を逸れ、オトルテン山の南側にあるホラート・シャフイル山へ登り始めてしまった。彼らはやがて誤りに気づいたが、1.5キロメートル下って森林地帯に入って風雪を凌ごうとせず、何の遮蔽物もない山の斜面にキャンプを設営することにした。

たった1人の生存者であるユーリー・ユーディンは、「ディアトロフはすでに登っていた地点から降りることを嫌ったか、この際山の斜面でのキャンプ経験を積むことに決めたのではないか」と述べている。

捜索と発見

ディアトロフは、一行がヴィジャイに戻り次第、速やかに彼のスポーツクラブ宛に電報を送ることになっていて、おそらく2月12日までには電報が送られてくるだろうと予想されていた。しかしディアトロフがユーディンに、もう少し遠征が長引くかもしれないと話していたこともあり、2月12日が過ぎて連絡がなかったにも関わらず、誰もこのことに特に反応しなかった。こうした遠征には、数日の遅れは付き物だったのである。

2月20日になってようやく、一行の親族たちの要請で、ウラル科学技術学校が、ボランティアの学生や教師からなる最初の救助隊を送った。その後、警察が腰を上げ、救助活動はヘリコプターや航空機を投入した大規模なものとなった。

2月26日、捜索隊がホラート・シャフイル山で酷く損傷して放棄されたテントを発見した。テントを発見した学生、ミハイル・シャラヴィンは「テントは半分に引き裂かれ、雪に覆われていました。中には誰もおらず、荷物はテントに置き去りにされていました」と述べている。調べによると、テントは内側から切り裂かれていた。8つないし9つの、靴下の足跡、片足だけ靴を履いた足跡、そして裸足の足跡が、近くの森(谷の反対側、1.5キロメートル北東)に向かって続いていたが、500メートル進んだところで、雪に覆われて見えなくなった。

森のはずれで、捜索隊は大きなヒマラヤスギの下で、下着姿で靴を履いていないユーリー・クリヴォニシェンコと、ユーリー・ニコラエヴィチの遺体、そして焚き火の跡を発見した。木の枝が5メートルの高さまで折られていたことは、彼らのうちの1人が木の上に登って、何か(おそらくキャンプ)を探していたことを示すものだった。

ヒマラヤスギとキャンプの間で、捜索隊はさらにディアトロフ、ジナイダ・コルモゴロワ、そしてルステム・スロボディンの3人の遺体を発見した。遺体はそれぞれ木から300メートル、480メートル、630メートル離れた位置から別々に見つかり、その姿勢は彼らがテントに戻ろうとしていた状態で亡くなったことを示唆していた。

残り4人の遺体を探すのには、さらに2ヶ月を要した。残りの遺体は、ヒマラヤスギの木からさらに森に75メートル分け入った先にある渓谷の中で、4メートルの深さの雪の下から発見された。4人は他の遺体よりまともな服装をしており、これはどうやら最初に亡くなったメンバーが、自分たちの服を残りの者たちに譲ったらしいことを示していた。ゾロタリョフはドゥビニナの人工毛皮のコートと帽子を被っており、同時にドゥビニナの足にはクリヴォニシェンコのウールのズボンの切れ端が巻かれていた。

捜査

1959年2月26日、救助隊が発見したテントの光景。テントは内側から切開されており、一行のメンバーたちは靴下や裸足でテントから逃げ出していた。

最初の5人の遺体が発見された直後、死因審問が始められた。検死の結果、5人は死に直接結びつく怪我は負っていなかったことがわかり、5人全員の死因が低体温症であることが判明した。スロボディンは頭蓋骨に小さな亀裂を負っていたが、これが致命傷になったとは考えられなかった。

5月に発見された4人の遺体の検死は、事情が違った。彼らのうち3人が、致命傷を負っていたのである。チボ=ブリニョールの遺体は頭部に大きな怪我を負っており、ドゥビニナとゾロタリョフの両名は肋骨をひどく骨折していた。ボリス・ヴォズロジデンヌイ博士は、このような損傷を引き起こす力は非常に強いものであり、交通事故の衝撃に匹敵するとしている。

特筆すべきは、遺体は外傷を負っておらず、あたかも非常に高い圧力を加えられたかのようであったことと、ドゥビニナが舌を失っていたことであった。当初、先住民マンシ人が、彼らの土地に侵入した一行を襲撃して殺害したのではないかとする憶測も流れたが、現場に一行の足跡しか残っておらず、至近距離で争った形跡がないという状況から、この説は否定された。

気温が摂氏マイナス25度から30度と極めて低く、嵐が吹き荒れていたにも関わらず、遺体は薄着だった。彼らの内の何人かは片方しか靴を履いておらず、同時にその他の者は靴を履いていなかったか、靴下しか履いていなかった。何人かの足は、先に亡くなった者の衣服を引き裂いたらしい衣服の切れ端で巻かれていた。

低体温症による死亡のうち、20%から50%はいわゆる矛盾脱衣と関連があり、これは通常、人が失見当識状態や混乱状態、好戦的な状態に陥るような中程度から重度の低体温症のときに起こる。おそらくこれが彼らが服を脱いだ理由であり、服を脱げば脱ぐほど、身体から熱を失う速度は早まっただろう。

事件の原因

超常現象から軍の秘密兵器実験に至るまで(後述)、事件を様々な原因と結びつけようとする説が持ち上がったが、なかでも有力な説明の一つとみなされているのが雪崩である。

この説に基づくシナリオのひとつは、押し寄せてきた雪が夜のうちにテントを潰し、メンバーはパニックに陥ったというものである。一行はテントを切り裂いて逃げ出したが、靴や余分な衣服を雪崩で失ってしまった。氷点下の中で湿った雪に覆われると、15分以内に極度の疲労や低体温症による意識喪失が起こり、生存に関わる危機を招く。チボ=ブリニョール、ドゥビニナ、ゾロタリョフ、そしてコレヴァトフは、自分たちが人里離れた場所に居るのも構わず、助けを求めて移動しようとし、渓谷に滑落した。彼らのうち3人の遺体がひどい骨折を負っており、かつ彼らが渓谷の中で4メートルの深さのところに横たわっていたのも、彼らが滑落したことの証左と見なしうる。

この一帯は傾斜15度で雪崩の起こりやすい地域ではないという主張はあるものの、面発生表層雪崩は新雪が積り、人が雪塊を崩したところでよく起こる。事件のあった夜は雪が降っており、キャンプ地は山の斜面にあって、一行がいたために雪塊は不安定になっていた。そして、テントは部分的に切り裂かれ、雪に覆われていた。これらのことは、小規模な雪崩がテントを押し流したという説を支持する根拠になる。

一方、捜査当局がキャンプ地から続く足跡を見たことは雪崩説を否定する根拠になる。さらに彼らから放射線が検出された謎や遺体から眼球や舌が喪失していた点も雪崩だけでは解明できない。

ジャーナリストらは、入手可能な死因審問の資料の一部が、次のような内容であると報告している。

  • 一行のメンバーのうち、6人は低体温症で死亡し、3人は致命的な怪我を負って死亡した。
  • 9人以外に、ホラート・シャフイル山に他の者がいた様子も、その周辺地域に誰かがいた様子もなかった。
  • テントは内側から切り開かれていた。
  • 一行は、最後に食事を取ってから6 - 8時間後に死亡した。
  • キャンプに残された痕跡は、彼らが自ら進んで徒歩でテントから離れたことを示していた。
  • 先住民のマンシ人が一行を襲撃したという説を払拭するために、ボリス・ヴォズロジデニヤ博士は、3人の遺体が負った致命傷は他の人間によるものではないとし、「非常に強い衝撃によるものであり、(その証拠に)遺体の軟部組織は何ら損傷を受けていなかった」と述べた。
  • 何人かの犠牲者の衣服に、高い線量の放射能汚染が認められた。
  • 発表された資料には、メンバーの内臓器官の状態に関する情報が含まれていない。

当局の最終的な調査結果は、全員が “抗いがたい自然の力” によって死亡したというものであった。死因審問は1959年5月に公式に終了し、「犯人はいない」と結論した。資料は機密文書保管庫に送られ、1990年代になってようやくコピーが公開されるようになったが、幾つかの資料が失われていた。

事件を巡る議論

研究者の中には、捜査当局が以下のような事実を見落としたか、意図的に無視したと主張している者もいる。

  • 後にエカテリンブルクに拠点を置くディアトロフ財団(下記参照)の理事長となる、当時12歳のユーリー・クンツェヴィチは、一行のメンバーたちの葬式に出席しており、彼らの肌の色が「濃い茶褐色」になっていたと回想している。
  • いくつかのメンバーたちの衣類(ズボン2着とセーター)が高い線量の放射能で汚染されていた。
  • 事件のあった夜、事件の発生地点から南に50キロメートル離れた場所にいた別のトレッキング客の一行が、北(おそらく、ホラート・シャフイル山の方角)の夜空に奇妙なオレンジ色の光球を目撃したと報告している。同様の“光球”は、1959年2月から3月にかけて、イヴデリとその隣接する地域で、それぞれ無関係の目撃者(気象・軍関係者を含む)によって目撃されている。これらは後に、R-7大陸間弾道ミサイルを発射した光であったことが、エフゲニー・ブヤノフによって証明されている。
  • 一部の報告は、軍がこの地域を(何らかの目的で)密かに利用し、そのことの隠蔽に取り組んできたのではないかという憶測に繋がる大量の金属くずが、この地域に置かれていたことを示唆している。
  • ディアトロフ一行の最後のキャンプ地は、バイコヌール宇宙基地(ここから、R-7大陸間弾道ミサイルの試験発射が何度か行われた)から、ノヴァヤゼムリャのチェルナヤ・グバ(ソビエト連邦内の主要な核実験場だった)に直接通じる道の途上に位置していた。
  • テント内にはカメラが残されており現像された。彼らの姿を映したものが多数を占めたが、最後の1枚が判別不可能ながら「光体」のようなものであった。

その後

1967年、スヴェルドロフスク州の著述家でジャーナリストのユーリー・ヤロヴォイは、この事件にインスピレーションを受けた小説『最高次の複雑性』( Of the highest rank of complexity )を出版した。ヤロヴォイはディアトロフ一行の捜索活動や、捜査の初期段階において公式カメラマンとして関与しており、事件に対する見識を有していた。

小説は事件の詳細が秘匿されていたソビエト時代に書かれ、ヤロヴォイは当局の公式見解以外のことや、当時すでに広く知られていた事実以外のことを書くことは避けた。小説は現実の事件と比較すると美化されており、一行のリーダーだけが死亡する結末など、よりハッピーエンドになるよう書かれている。ヤロヴォイの知人によると、彼はこの小説の別バージョンを幾つか書いたようであるが、いずれも検閲で出版を拒否された。1980年に彼が亡くなって以降、彼の持っていた写真や原稿などの資料は全て失われてしまった。

1990年になると、事件の詳細の一部が、以下の出版物やスヴェルドロフスク州の地元メディアで、公にされるようになった。そうした最初の出版物の著者の1人が、アナトリー・グシュインである。グシュインは、警察当局が死因審問のオリジナルの資料を調査し、それらを出版物に使うことを認める特別許可を出したと報告している。彼は、事件の物品目録の中で言及されていた謎の「エンベロープ(envelope)」などに関する、多数のページが資料から消されていたことに気づいた。同じ頃、いくつかの資料のコピーが、他の非公式な研究者の間に出回り始めた。

グシュインは、彼の著書『国家機密の価値は、9人の生命』の中で、調査結果をまとめている。一部の研究者は、この本の内容が「ソビエト軍の秘密兵器実験」説に入れ込み過ぎていると批判したが、本は超常現象への関心を刺激し、公の議論を沸き起こした。実際、30年間口を閉ざしていた人々が、事件に関する新たな事実を報告したのである。そうした中の1人が、1959年に公式の死因審問を率いていた警察関係者、レフ・イヴァノフであった。

1990年の彼の著書によれば、当時の捜査チームは事件を合理的に説明することが出来なかった上、地域の高級官僚から、死因審問を中止して、捜査チームが見た“飛行する球体”に関する資料を機密にするよう、直接指示を受けたというのである。イヴァノフ個人は、何か超常現象─具体的に言えば、UFOなど─が起きたことを信じているという。

2000年、地元テレビ局が、ドキュメンタリー番組『ディアトロフ峠の謎』を制作した。制作にあたっては、エカテリンブルク在住の著述家で、事件をモデルにドキュメンタリー仕立てのフィクション小説を執筆したアンナ・マトヴェーエワが協力した。この小説の大部分は事件の公式の資料や、犠牲者たちの日記、捜索に携わった者からのインタビューや、映画製作者が集めたその他の資料の引用から成っていて、物語のおおまかなあらすじは、事件を解明しようと試みる現代に暮らすある女性(著者自身の分身)の、日常と考えを追うといった内容である。

フィクション小説であるにもかかわらず、マトヴェーエワの著書は、事件に関して公表されてきた情報源の中としては最大級のものとして扱われ続けている。また、事件の資料やその他の文書のコピーや写しが、熱心な研究者に向けて、徐々にWebフォーラムで公開されはじめている。

エカテリンブルクでは、ウラル工科大学の助けを借りて、ユーリー・クンツェヴィチによってディアトロフ財団が設立された。財団の目的は、ロシア当局に対して事件の再調査を開始するよう求めることと、亡くなった者たちの記憶を保存するディアトロフ記念館を維持していくことである。

事件を扱った映画・その他作品

  • 『ディアトロフ峠の謎』: 2000年, TAU (ウラル・テレビジョン・エージェンシー)。
  • エンシャント・エイリアンズ (シーズン3, 第10話: “Aliens and Evil Places”)、ヒストリー・チャンネル
  • 映画『ディアトロフ・インシデント』、レニー・ハーリン監督作品。2013年2月28日公開。
  • テレビ番組ダーク・マターズ: ツイステッド・バット・トゥルーの2012年8月25日放送のエピソード”Cold War, Cold Case“の中で、事件について触れられている。
  • アレック・ネヴァラ=リー(Alec Nevala-Lee)の2012年の小説_City of Exiles_の中では、事件が重要な位置を占めているという設定である。
  • ロシアのトークショー番組”Let Them Talk”の2013年春の2時間スペシャルで、事件が特集された。
  • ギリシャの小説家Panayiotis Panagopoulosは、事件の舞台をオリンポス山の斜面に移した小説To Perasma tou Ignatiou(イグナティウス峠)を執筆した。
  • ホラート -ディアトロフ峠の惨劇- 事件をベースに作られたアドベンチャーゲーム(PS4向け)。プレイヤーは不気味な雪山を探索しながら点在するメモを拾い集め、物語の謎に挑む。