1974年, 日本・大分県・別府市

別府3億円保険金殺人事件

テレビで潔白を主張した保険金殺人

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update:2018/11/02 10:12:32

別府3億円保険金殺人事件は、1974年11月17日大分県別府市で発生した保険金殺人事件。

概要

1974年11月17日午後10時頃、大分県別府市の国際観光港第三埠頭で、時速40kmほどで走ってきた日産・サニーが海面に転落。不動産経営者の男(当時47歳)は海面を泳いでいるところを救助されたが、彼の妻(当時41歳)、長女(当時12歳)、次女(当時10歳)は溺死した。

死亡した3人には、月々の掛け金が十数万円で死亡時の受取金額が計3億1000万円と、極めて高額の保険契約が結ばれていたことから、保険金殺人の疑惑が浮上。この男は1950年に家屋に保険金をかけて放火した保険金詐欺で最高裁で懲役8年(恩赦により6年)の有罪判決を受けて服役した過去があり、他にも恐喝罪(1949年に内縁関係にあった女性を医師に頼んで堕胎させておきながら、その医師を医師法違反などで恐喝した)や傷害罪(服役後に不動産業を友人で共同経営したが、その友人の妻をめぐってトラブルを起こした)で度々服役していたため、「九州一のワル」と呼ばれていた。

また、死亡した3人の他に長男(当時15歳)にも保険がかけられていたが、男が自分の死亡に関しては全く保険をかけていなかったことも発覚した。男は妻とは3か月前に結婚したばかりで、保険金がかけられていた長女・次女・長男の3人は男との直接の血縁関係はなかった。長男の証言からドライブを提案したのは父親だったこと、長女がそれを断ろうとすると父親が怒ったことが判明している。長男も父親からドライブに誘われたが、受験勉強を理由に断ったため難を逃れた。

男は「自分と妻が交互に運転していたが、妻の運転中に自分が助手席で目を瞑っていた際に、運転していた妻の大きな悲鳴が聞こえ、目を覚ました時には既に自分は海中にいて、割れたフロントガラスから夢中で抜け出した」と主張。男は妻の運転による事故であるとして保険会社に保険金を請求したが、保険会社は「警察の交通事故証明がなければ支払えない」と拒否。警察は「事故が作為的かどうか判然としない限り出せない」と交通事故証明交付を拒否した。

その頃から、保険金殺人の疑惑があるとしてマスコミが報道して劇場型犯罪の様相を見せていた。カラーテレビ普及後の日本において、警察が逮捕する前から保険金殺人疑惑をセンセーショナルに先行報道した最初の事件と言われている。

また、男は運転していたのは妻だと主張していたが、実際には男自身が運転していたとの疑惑が浮上。警察は逮捕前から、男に対し取り調べ同然の事情聴取をした。

男は保険金殺人疑惑を報じるマスコミを巻き込んで、「死ぬかもしれない危険を冒してまで保険金殺人をするわけがない。できるというのなら、お前もやってみろ」と保険金殺人を否定した上で、自分に保険金が入ることの正当性を主張した。

12月11日、男はフジテレビ制作のワイドショー番組『3時のあなた』に生出演。背景には死亡した3人の大きな写真が飾られたスタジオセットで、司会者の寺島純子、ゲストの作家戸川昌子大谷羊太郎を相手に男は身の潔白を主張するも、ゲストの発言に男は激怒し、席を蹴って退場した。この番組生放送終了後の同日午後5時40分にテレビ局裏で男は殺人罪容疑で逮捕された。

裁判

海中から引き上げた乗用車の調査や裁判での証人の証言から以下のことが明らかになった。

  • 車の鑑定で妻の膝に付いた傷と助手席ダッシュボードの傷跡が一致。
  • 車に付いている水抜き孔のゴム栓が全て取り外されていた。
  • 運転席前のルームミラーが固定式のものから脱落式のものに取り替えられ、外れやすくなっていた。
  • 車のダッシュボードに窓ガラスを割るために被告人が用意したとされる金ヅチが入っていた。
  • 事件当夜、事件現場前の信号機で停まっていた日産サニーの運転席に被告人が座っていたとする鮮魚商の男性の証言。
  • 鮮魚商の男性は男の車が事故があった第三埠頭方向への交差点を左折したと証言。被告人はその交差点では左折せずさらに先の第二埠頭前の交差点を左折し第三埠頭方向へ走ったと主張してこれを否定。しかし事故当時の海岸付近は工事が行われており被告人が走行したと主張する道路はテトラポットにより封鎖されていたため、被告人が主張する順路での車の走行が不可能であったこと。
  • チャパキディック事件をヒントに家族に保険金をかけて車ごと海に飛び込み、自分だけ助かる手法で保険金を手に入れること」を被告人から打ち明けられていたとする刑務所仲間の証言。

また、保険金がかけられながらも死を免れた被告人の長男は、証言台に立った際「あの男を死刑にして欲しい」「お前がやったんだ!」と発言した。

しかし、これらは重要な証拠ではあるが、決定的直接証拠とまでは言えなかった。

1980年3月28日大分地裁は被告人に死刑判決を言い渡す。

控訴をするも、1984年9月、福岡高裁本庁は控訴を棄却し、死刑判決を維持。

1987年最高裁判所にて上告をしようとしたものの、被告人は癌に倒れ、八王子市の医療刑務所に移送。

上告中の1989年1月13日に被告人は癌性腹膜炎で死亡し、公訴棄却。享年61。

状況証拠しかなかったが、被告人に一審・二審とも死刑の判決が出されたのは、保険金という金銭的動機が容易に予想されたことだけでなく、短気な性格だった被告人が裁判中に、被告人に不利な証言をした証人を罵倒するなどして、裁判官の心証を限りなく悪くしたためと言われている。

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