1992年, アメリカ合衆国・日本

日本人留学生射殺事件

日本人留学生が誤って迷い込んだ民家で射殺

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update:2017/12/19 02:45:03

日本人留学生射殺事件は、1992年10月17日アメリカ合衆国ルイジアナ州バトンルージュで、日本人留学生射殺された事件である。

事件発生まで

当時高校2年生で16歳の日本人少年Aは、英語教師の母親の影響から、幼い頃からアメリカに憧れを持っていた。愛知県の公立高校に通っていた2年生の夏、交換留学 (AFS)を通じて、アメリカ合衆国ルイジアナ州バトンルージュに渡米した。

アメリカでは、同年代の高校生の長男、大学教授の父親、医師の母親の3人一家にホームステイし留学生活を送っていた。1992年10月17日、夜の8時半に長男と共にハロウィンの衣装を着用し、ハロウィンのパーティーに出掛けた。

仮装といってもメーキャップなどは一切しておらず、ダンス映画のサタデー・ナイト・フィーバーにおけるジョン・トラボルタの衣装として、タキシードを着ていたのみであった。 長男は、事件数日前にプールへ飛び込んだ際に首を痛め、首にギプス包帯を巻いていた。

2人は訪問しようとした家と間違えて、スーパーマーケット従業員のロドニー・ピアーズ家の敷地に足を踏み入れてしまった。ピアーズの妻は、敷地内に入ってきた2人の高校生を発見し、夫に銃を持ってくるよう要求した。

妻の要求を受け、身長188cmの大柄の夫ピアーズ(当時30歳)は、相手が身長170cm程度の少年2人にもかかわらず、ライオンをも射殺できる程、威力・殺傷能力も高く、重量のある大型拳銃マグナム、レーザースコープ付きのスミス&ウェッソン社製の.44マグナム(機種は不明)を持ち出し玄関に戻った。

この時「フリーズ(” Freeze “, 日本語で「動くな」の意味)」と警告したとピアーズ側は主張している(後述)。これに対し、少年Aは住人が出てきたことを受け「パーティーに来たんです ( We’re here for the party. )」と応答した。だが、ピアーズは発砲。弾丸は少年Aの左肺の上部と下部を貫き、第7肋骨のあたりから抜け出た。救急車が呼ばれたが、少年Aは出血多量により、車中で死亡した。

刑事裁判へ

ピアーズは、日本の刑法では傷害致死罪に相当する「計画性のない殺人罪」で起訴されたが、同州の東バトンルージュ郡地方裁判所陪審員は12名(白人10名、黒人2名)全員一致で無罪の評決を下した。その時のピアーズ側は主張は以下の通りである。

  • ピアーズが警告したにもかかわらず、少年Aが立ち止まらずピアーズの方に歩み続けたため、脅威に感じ発砲した。
  • 少年Aが手に持っていたカメラを凶器と誤認してしまった。
  • ピアーズは少年Aに対して4回「ストップ (Stop!)」と叫んだと主張している。少年と一緒にいたホストファミリーの長男は、 “身長188cmの大柄の男が叫び声を上げながら、高威力の拳銃マグナムを、身長170cmの16歳の東洋人と首を痛め首にギプスを巻いていた自分らに向けるなど、状況が極めて危険であることが理解できたので、少年Aに動かないように呼びかけた” と裁判において証言した。

評決の理由は裁判において明らかにされていない。ルイジアナ州の法律では、屋内への侵入者については発砲が容認されているが、撃たれたとき少年Aは敷地内に踏み込んでいたものの、屋内へ立ち入ったわけでもないため、通常は発砲は認められていなかったにもかかわらず無罪評決が出た。それは正当防衛を認めたものか、傷害致死罪の構成要因を満たしていないと陪審員が判断した結果なのかは不明である。

ただし日本のメディアは、発砲が正当防衛として認められて無罪となったとことや、少年Aが警告を理解できなかったなどの文化の違いが原因として報じられる傾向であった。また、刑事裁判後『ニューヨーク・タイムズ』の記者に対し「もう二度と銃を手にすることはないだろう」と語ったことがあるが、無罪判決のため、銃の免許の取り上げや所持していた複数の銃の没収は行われておらず、その後銃を手放したどうかは不明である。

判決が出たことを受け、日本国内の関心は急速に薄れていたが、遺族らの活動やムーア弁護士の登場により、この事件は新たな結末を迎えることとなる。

民事裁判へ

この後行われた、遺族が起こした損害賠償を求める民事裁判では、刑事裁判とは正反対の結果となった。

まず、ムーア弁護士は裁判の公平性を確保すべく、感情で判決が左右されることもある陪審員裁判ではなく、証拠に基づいて判決を行う判事制裁判にすることを狙った。

アメリカでは陪審員裁判にする場合、どちらかが事前の申請と費用負担が必要であり、それがない場合自動的に判事制になるという特徴を持つ。ムーア弁護士はそれを逆手に取り、ムーア側が陪審員裁判の準備をしているように見せかけ、ピアーズ側が陪審員裁判を求めないよう牽制した。その結果準備がなかったため、判事制裁判となった。

まず、ピアーズ側の主張について少年A側のムーア弁護士は反論していった。

  • 距離や接近については矛盾が指摘され、民事裁判でも改めて争点となった。
  • :ムーア弁護士は、ロドニー・ピアーズと少年Aの距離には矛盾があると指摘した。ピアーズ被告側のアングルズビー弁護士は2人の距離が90cmから150cmしかなかったと主張したが、実際はピアーズの腕の長さと全長21cmのマグナムを考えると2人の距離はそれに加えてさらに1mはあったはずであり、ムーア弁護士が銃の専門家に確認すると、歩いてくる人間を至近距離で撃った場合撃たれた人間は歩く勢いで1mほど前に倒れ込むと証言した。
  • :刑事裁判において専門家が出したという90cmから150cmという数値は、銃口から少年Aまでの距離であり、別の専門家の鑑定によると、2人の距離は190cmから250cm離れていたことが判明した。そのため、屋内へ立ち入ったわけでもなく、玄関から少なくとも数メートル離れていたこととなるため、ピアーズはただ後ろに下がりドアを閉めることや、応対せずに警察を呼ぶなどの選択肢もあったはずであったが、ピアーズは威嚇射撃ではなくいきなり少年Aの胸に向けて発砲したこととなる。にもかかわらず弁護側はこの事実を伏せ、ピアーズと少年Aの距離が近かったため、やむなく発砲した言葉巧みに主張し、陪審員たちを無罪評決へと誘導したことが明らかとなった。
  • 警告したにもかかわらず少年Aが近距離に接近してきたと主張した点については、実際には、法医学的証拠により、少年Aはまったく動いていなかったか、ゆっくりとしか動いていなかったことが証明されている。しかも、刑事裁判ではピアーズ側は少年Aが手に持っていたカメラを凶器と誤認したなどと主張していたが、民事裁判においてピアーズは、少年Aが持っていたカメラに気づいていなかった、すなわち手ぶらに見えたと証言を翻した。

他にも、脅威を感じたという点については、少年Aは身長170cm・体重61kgに対しピアーズは188cmの長身に体重は84kgと、体格差による恐怖心は起きにくかったことや、熊をも撃ち殺せるマグナムを構えておきながら、恐怖を感じ、威嚇射撃や足などへの射撃もせず、いきなり急所へ向けて発砲したのは不自然であり、いきなり丸腰の少年Aの胸部に向け銃を発砲したということは殺意があった証拠だとムーア弁護士は述べた。

また、.44マグナムの拳銃を使用したことも指摘した。家にあった6丁の銃の一つだが、これは最近購入したものであり、しかも、玄関にあったライフル銃ではなく、わざわざ往復することになる寝室まで取りに行き、持ち出しに時間もかかるクローゼットの中から取り出したことを指摘した。

実際、.44マグナムの拳銃は重く、威力も強すぎて反動により連射に時間がかかるため、実用性としては決して良いものではない。アメリカにおいても大口径のマグナム弾使用拳銃は狩猟時の護身用として使うことはあるが、自宅での自衛用としてあえて使うことは皆無であり、どちらかと言えば銃愛好家向けの嗜好品と見なされている。

また、ムーア弁護士は新たな事実として、自身が調査したピアーズに関する情報を提示した。ピアーズは当時家に6丁も銃を持つガンマニアでありで、鹿狩が趣味と公言し、しばしば近所や自宅敷地での犬猫への射殺事件を繰り返しており、2年間に200回以上もの射撃を行うなど銃愛好家であることを提示した。

その上、当日はウイスキーをコーラ割りという高濃度のアルコール飲料を飲んでいたため、判断力が低下しており、刑事裁判で主張したフリーズやストップなどの警告への信憑性がないこと、妻の前夫とトラブルを起こしており、事件の前に前夫に対して「次に来た時は殺す」などと言っていたなどの事実を提示した。

さらにピアーズ夫妻は、何度も矛盾する証言を警察からの聴取や裁判で繰り返し、何度も証言を翻していた。例えば、ピアーズは当初、過去2年間に銃を使用したことは一度もないと証言していたが、実際は前述の通り2年間に200回以上もの射撃をしていたことが明らかとなった。

これらの事実を踏まえ、正当防衛ではなく、殺意を持って射殺したとして65万3000ドル(およそ7000万円)を支払うよう命令する判決が出された。翌年、同州高等裁も控訴を棄却したため判決が確定した。

その後の経緯

ロドニー・ピアーズおよびその妻や親は、裁判所に命じられた賠償金65万3000ドルのうち、現在に至るまでその一切を支払っていない。支払われたのは、ピアーズではなくピアーズが自宅にかけていた保険により保険会社から直接支払われた10万ドルのみである。

ピアーズはこの事件により職場(ウイン・ディキシー・スーパーマーケット)を解雇され、借金まみれになった挙句、賠償金を一切支払わないまま自己破産した。

少年Aの両親は交換留学と友人たちの協力で「アメリカの家庭からの銃の撤去を求める請願書」に署名を求める活動を開始、1年余で170万人分を超える署名を集めた。1993年11月、当時のアメリカ大統領ビル・クリントンに署名を届けるために面会した。

夫妻がワシントンD.C.に滞在していた間に、アメリカにおける銃規制の重要法案であったブレイディ法が可決された。しかしその後、効力延長されず2004年に失効となった。

日米間の文化の違いを乗り越え相互理解してもらうことを目的に、少年Aの遺族は生命保険の支払い金を原資として、AFS留学生として日本に滞在するアメリカの高校生に毎年1人ずつ奨学金を提供する「YOSHI基金」を1993年6月に設立し、翌年から毎年実行している。

少年Aの遺族はまた、賠償金の支払い10万ドルのうち、弁護士報酬および裁判費用を除いた4万5000ドルを原資として、「Yoshi’s Gift」を設立し、アメリカ国内の銃規制団体を援助している。1996年の初年度はバージニア州およびニューハンプシャー州の銃規制団体援助を実施、その後公式サイト上で1998年、1999年、2000年、2002年、2004年の活動を報告している。

2012年10月18日、夫妻はルイジアナ州を訪れ、追悼式典、銃規制の会議に出席した。母親は「銃をめぐる状況は停滞しているが、希望が見えてきた。尊敬される米国になってほしい」と述べた。

在米中国人の女性映画監督クリスティン・チョイは『世界に轟いた銃声』(原題: The Shot Heard Around the World )というドキュメンタリー映画を製作した。この映画では民事訴訟におけるピアーズの様子のほか、殺害された少年Aの母親も出演している。そこで彼女は息子を射殺した男性もまたアメリカの銃社会の被害者かも知れないと発言している。

バトンルージュでは銃規制団体が10月17日を「YOSHIの日」として祈念行事を行っている。

事件の背景

この事件は、銃を身近にある日常的なものとして暮らしているアメリカと、日常生活において銃を目にする機会がほとんどない日本とで、銃に対する意識が大きくかけ離れていることを互いに認識させる契機となった。

アメリカ合衆国には、アメリカ合衆国憲法権利章典にて、銃で自らや家族を防衛すること(武装権)を認める権利が憲法に存在し、このような社会においては、他人の敷地に許可なく侵入することの危険性、射撃の警告を受けた場合の対処の仕方(例えば警官に職務質問などにおいて警告を受けた場合、絶対身体を動かしてはならない)などのアドバイスが、外国人に対して必要ではないかという指摘もある。

困難を極めたブレイディ法の成立は、夫妻の運動が影響を与え、その後夫妻はストップザガンキャラバン隊に参加し、The Coalition to Stop Gun Violence (CSGV)と連携して活動している。

評論

映画評論家の大場正明は事件の背景として、銃社会のほかに、当時のアメリカの新興住宅地に蔓延していた犯罪への恐怖や人種偏見などを指摘している。

平和の石

1996年にバトンルージュのユニタリアン教会に本事件の記念碑「平和の石」が設置された。「平和の石」は愛知県の造園会社を通してアメリカへ輸送されたが、送り主は不明である。