1980年, アメリカ合衆国・ニューヨーク州

ジョン・レノン殺害事件

世界に衝撃を与えた殺人事件

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update:2018/10/10 12:28:53
殺害現場のダコタ・ハウス

ジョン・レノン殺害事件は、 ビートルズの創設メンバーの1人として、またその後のソロ音楽活動、政治活動、平和主義運動により世界的な名声を得ていた英国のミュージシャン、ジョン・レノン (John Lennon)が、1980年12月8日アメリカニューヨーク市で射殺された事件。

概要

ジョンはこの日、当時住んでいたニューヨークの高級集合住宅ダコタ・ハウスの入口でマーク・チャップマン (Mark David Chapman)に射殺された。ジョンは妻ヨーコ・オノと共に、ちょうどレコード・プラント・スタジオ から帰宅したところだった。

ジョンは市内のルーズヴェルト病院に搬送されたが、到着してすぐに死亡が宣告された。40歳だった。地元のニュース局がジョンの死を報道するとすぐに、病院とダコタ・ハウスの前に群衆が集まり始めた。

ジョンは1980年12月10日、ニューヨーク州ウエストチェスター郡のファーンクリフ墓地で火葬され、遺灰 はヨーコに渡されたが、彼女はジョンの葬儀は執り行わないことを決めた。全米にジョンの死を伝えた最初のメディアによる報道は、 ABCNFL中継番組『マンデーナイトフットボール』での、コメンテーターのハワード・コーセルによるアナウンスだった。

マーク・デイヴィッド・チャップマン

テキサス州フォートワース生まれ。父親はアメリカ空軍の3等軍曹だったがチャップマンが生まれてまもなく除隊し、石油会社アメリカン・オイルで働いた。母親は看護婦。7歳下の妹がいる。

本人談によると、父親は妻に暴力をふるう男で、息子にも愛情がなかった。父親に怯える生活の中で、自分は寝室の壁の中に住む小人たちを支配する王であるという空想に浸るようになる。小人たちの新聞やテレビに毎日登場し、彼らのためにヒーローのようにふるまうこともあれば、癇癪を起こして彼らを殺すこともあったが、いつも小人たちは許してくれた。

運動はできなかったがIQは121あり、大人の目には、ロケットやUFOやビートルズが大好きな普通の子供に映っていた。父親はボーイスカウトのリーダーを務め、YMCAでギターを教えており、息子にも教える姿がしばしば目撃され、周囲からは幸せな一家と思われていた。

ディケーター (ジョージア州)のコロンビア高校に進学した14歳のころから親に反抗的になり、ドラッグに手を出し、夜遊びを始め、警察の世話になることもあったが、16歳のときに長老派の伝道師の説教会に行ったのをきっかけに人が変わったように真面目になり、聖書のリーフレットを配り歩き、学業も向上した。

YMCAのサマーキャンプで指導員を務めたときは子供から絶大な人気を得、優秀指導員の賞を受けるほどだった。友人から『ライ麦畑でつかまえて』を薦められ、主人公のホールデン・コールフィールドにのめり込んでいった。

高校卒業後シカゴに移り、物まね芸をする友人と一緒に教会やクリスチャン向けのナイトスポットに出演し、ギターを担当したが、ほどなく故郷に戻り、YMCAで働くためにコミュニティカレッジに通った。YMCAの仕事でアーカンソー州ベトナム難民再定住施設で働き、ここでも子供から人気を集めた。その後、結婚を約束した恋人とテネシー州に移り、二人で長老派系の大学へ通ったが、成績が振るわず、しかも別の女性を愛して、罪悪感にさいなまれるようになった。このころから自殺願望が芽生え、大学を退学し、婚約者とも別れた。

故郷に戻り、再びYMCAのサマーキャンプ指導員になったがうまくいかず、警備員として働き始めた。1977年に自殺するためハワイへ向かったが、楽園で過ごすうちに生きる希望が生まれ、一度は故郷に戻ったが、両親と喧嘩して再びハワイへ飛んだ。浜辺で排ガス自殺を図ったが、日系人の猟師に見つかり一命を取り留め、神に救われたと感じた。

病院でリハビリを受け、回復後は近くのガソリンスタンドで働きながら、病院のボランティアとして老人の介護や雑用を手伝った。世界一周旅行の手配を通じて旅行代理店に勤めていた日系アメリカ人のグロリア・ヒロコ・アベと知り合った。グロリアには小さいころに患ったポリオのせいで足を引きずる障害があった。極東から東南アジア、ヨーロッパを回ってアトランタまで旅し、ハワイに戻って1979年にグロリアにプロポーズをした。グロリアは彼のために仏教からキリスト教に改宗した。

6月に結婚し、病院の印刷係として勤め始めたが、再び神経過敏になって周囲とうまくいかずクビになり、夜警になった。強迫観念から過度な飲酒と病的な浪費が始まったかと思えば、一転して節約に夢中になったり、さまざまな衝動的で暴力的な異常行動が続き、想像上の小人も再び現れるようになった。

やがてジョン・レノンの伝記を読み、その金満生活に怒り狂い、レノン殺害計画を小人たちに話した。10月23日には夜警を辞め、27日に銃を買い、30日にレノンの住むニューヨークに向けてホノルルを発った。

チャップマンは、その年の10月にもジョンを殺害するためニューヨークを訪れジョンに会っていたが、この時は心変わりして帰郷している。この時、チャップマンはジョンにアルバム『ダブル・ファンタジー』を無言で手渡した。ジョンはそれにサインし、「君がほしいのはこれだけかい?」(Is this all you want?)と尋ねると、チャップマンは笑顔で頷いた。写真家でジョンのファンであるポール・ゴレシュは、この遭遇の瞬間を写真に収めている。

事件当日の出来事

撮影、インタビュー、レコーディング

写真家のアニー・リーボヴィッツが、雑誌『ローリング・ストーン』のための写真撮影を行うため、ジョンの自宅を訪れた。リーボヴィッツは当初、ジョンのみを撮影しようとしていた。リーボヴィッツは「ヨーコの写真が表紙に載ることを誰も望んでいなかった」と述べている。しかし、ジョンが妻が共に表紙を飾ることを強く主張したため、結局リーボヴィッツは受け入れた。

撮影が終わった午後3:30、リーボヴィッツはダコタ・ハウスを出た。写真撮影の後、ジョンはRKOラジオ・ネットワークの音楽番組で放送される予定の、サンフランシスコDJ、デーヴ・ショリンによるインタビューに応じたが、これが彼の最後のインタビューとなった。

午後5:40、迎えのリムジンが遅れて到着し、ジョンとヨーコは『Walking on Thin Ice』(ジョンがリード・ギターを担当したヨーコの曲)のミキシング作業を行うため レコード・プラント・スタジオに向かった。

ジョンとヨーコがRKOラジオ・ネットワークのスタッフと共にリムジンに向かう途中、サインを求める数人が近づいてきた。その中の1人がマーク・デイヴィッド・チャップマンだった。この頃、ダコタ・ハウスの外でファンがジョンを待ち構えてサインをねだるのはよくあることだった。

レノン夫妻は午後10:50頃ダコタ・ハウスに戻るまで、数時間をレコード・プラント・スタジオで過ごした。ジョンは夕食を外で取るのを取りやめ、息子におやすみの挨拶をするために一旦ダコタ・ハウスに戻ってから、ヨーコと共に近くのレストランステージ・デリ向かうことにした。

ジョンは自分を長時間待つファンに対しては、誰にでもサインや写真撮影に応じていた。1980年12月6日 BBCラジオ1でのインタビューではDJのアンディー・ピーブルズに対し、「みんなやって来てはサインをねだったり、’ハイ’と挨拶するだけで、困るようなことをする訳じゃない」(“People come and ask for autographs, or say ‘Hi’, but they don’t bug you.”)と話している。そのため、レノン夫妻はダコタ・ハウスのより安全な中庭でリムジンを停車させる代わりに、手前の72丁目で車を降りた。

殺害

チャップマンは、その日の午前中からダコタ・ハウスの外でジョンを待ち構えており、午後にはベビーシッターと共に帰宅したジョンの息子ショーン(当時5歳)にも遭遇している。チャップマンによれば、彼はショーンの手を、ちょっとの間触ったという。

ダコタ・ハウスのドアマンで元CIAのエージェントであったホセ・サンヘニス・ペルドモと、付近にいたタクシー運転手は、チャップマンが歩道上で、玄関アーチの陰にひそんで立っているのを目撃している。

ジョンはチャップマンの前を通り過ぎる際、チャップマンを一瞥し、以前に会ったこと思い出していたようであったという。その数秒後、チャップマンはチャーター・アームズ社製の.38スペシャル弾回転式拳銃でジョンの背中の中央に狙いを定め、ホローポイント弾を5発、およそ3m(9~10フィート) 離れたところから立て続けに発射した。

その夜にニューヨーク市警察が出した声明や、様々なメディアの報道によれば、チャップマンは発砲する前に大声で「レノンさん」(“Mr. Lennon”)と呼びかけてから、銃をコンバット・スタイルで構えた。後に開かれた公判での聴取や目撃者へのインタビューには、「レノンさん」という呼びかけや、コンバット・スタイルについての言及はない。チャップマン自身は、発砲前にジョンの名前を呼んだか覚えていないと述べているが、1992年バーバラ・ウォルターズから受けたインタビューでは、コンバット・スタイルを取ったことは認めている。

1発目の銃弾は命中せずにジョンの頭部のそばをかすめてダコタ・ハウスの窓に当たった。続く2発の銃弾はジョンの背中左側に命中し、その後の2発がジョンの左肩を貫通した。ジョンは銃傷と口からおびただしく出血し、「撃たれた、撃たれた」(“I’m shot, I’m shot”)と言いながらダコタ・ハウスの受付への階段をふらふらと5段登った。そこでジョンは床の上に崩れ落ち、持ち歩いていたカセット・テープが散乱した。

ダコタ・ハウスのコンシエルジュ、ジェイ・ヘーステングス(Jay Hastings)は、まず止血帯を作りはじめたが、複数の銃傷による苦痛をやわらげるためジョンの血染めのシャツを取り、すぐに自分の制服のジャケットをジョンの胸部に被せ、血の付いた眼鏡を外してから警察を呼んだ。

外ではドアマンのペルドモが、チャップマンの手を揺さぶって銃を離させると、その銃を歩道の端へ蹴り飛ばした。するとチャップマンはコートと帽子を取って警察の到着に備えた上で(武器を隠し持っていないこと警察に示すため)、歩道に腰かけた。ペルドモが「自分が何をしたのか分かっているのか?」(“Do you know what you’ve just done?”)と大声で問いかけると、チャップマンは静かに「ええ、ジョン・レノンを撃ったんです」(“Yes, I just shot John Lennon”)と静かに答えた。

現場に最初に到着した警官はスティーヴ・スパイロ(Steve Spiro)とピーター・カレン(Peter Cullen)で、ダコタ・ハウスでの発砲事件の通報を受けた時には、72丁目とブロードウェイ の辺りにいた。それからおよそ2分後に警官達が現場に到着すると、「とても静かに」歩道上に座っているチャップマンを見つけた。

その時チャップマンは、銃を路上に放り出してJ・D・サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』のペーパーバックを持っていた、と警官達は報告している。チャップマンは即座に手錠をかけられてパトカーの後部座席に押し込まれた。チャップマンは逃げようとしたり、逮捕に抵抗する様子が全く無かった。

ダコタ・ハウスの玄関 ジョンがロビーに倒れこむ前に上った階段が見える

その数分後に現場に到着したのは、ビル・ギャンブル巡査とジェームズ・モラン巡査のチームであった。彼らはジョンの負傷がひどいことを知り、救急車を待たずにジョンをパトカーの後部座席へ乗せてルーズヴェルト病院へ搬送することにした。モラン巡査が「あなたはジョン・レノンですか?」(“Are you John Lennon?”)と問いかけると、ジョンは頷いて「”Yes”」と答えたという。しかしこれとは別の報告によると、ジョンは僅かに頷きしゃべろうとしたが、喉からゴロゴロ音を出すことしかできず、その後すぐに意識を失ったという。

午後11:00の数分前にギャンブル巡査とモラン巡査がルーズヴェルト病院に到着した時、救急救命室でジョンを迎えたのはステファン・リン博士であった。パトカーの後部座席からモラン巡査がジョンを背負って患者搬送用の台車付き担架の上に載せると、救急救命室へ搬送する途中、医師に複数の銃傷を受けた患者の処置を依頼した。

ジョンは到着時には既に脈拍がなく呼吸も止まっていた。リン博士と他の2人の医師、そして看護師1人が、15~20分かけてジョンを蘇生させるための処置を行った。リン博士は心拍を復活させるため、最終手段としてジョンの胸部を切開して、直接手で心臓をマッサージしようとしたが、心臓周辺の血管の損傷が大きすぎることを発見した。

リン博士によれば、ジョンの死亡宣告時刻は23時15分頃であったとされるが、時刻は23時7分であったとする報告もある。ジョンの遺体は1番街520にある市の遺体安置所に運ばれ、そこで検視が行われた。死因は、胸部と大動脈弓を貫通している複数の銃傷のため、循環血液量の80%以上を失ったことにより引き起こされた「出血性ショック」と報告された。

ジョンの検視を担当した病理学医はその報告書において、どんなに迅速に医療処置を施したとしても、このように多くの銃傷を負って数分以上生存することは、誰にとっても不可能であると述べた。

病院の外科医は、他の目撃者と同様、ジョンの死亡が宣告された時に院内放送でビートルズの楽曲『オール・マイ・ラヴィング』が流れていたと述べている。

ジョンの背中に当たった4発の銃弾の内、3発は胸部から外に出てジョンの体を貫通しており、もう1発は心臓のそばの大動脈に当たって止まっていたため、合計で銃傷は7つとなり、そのほぼ全てが致命傷であった。ジョンは4発のホローポイント弾(標的に当たると膨張し、標的の体内を通る際に組織をより大きく損傷させる)で撃たれていた。そして弾丸の作用が及んだジョンの器官、特に左の肺と心臓周辺の主な血管が、衝撃によりほとんど破壊されていた。

リン博士は「もし(ジョンが)、処置の準備が整った外科医のチームが待機している処置室の中で同じように撃たれたとしても、損傷から生還することはできなかっただろう」と述べている。

リン博士に夫の死を告げられたヨーコはすすり泣きながら、「Oh no, no, no, no …」「うそだと言って」(“tell me it’s not true”)と言った。博士は、ヨーコが倒れこんで床に頭を打ち付け始めたが、看護師が彼女にジョンの結婚指輪を渡すと落ち着きを取り戻したと記憶している。ヨーコはショック状態の中、ゲフィン・レコード の社長デヴィッド・ゲフィン(David Geffen)に付き添われてルーズヴェルト病院を後にした。

『マンデーナイトフットボール』

ヨーコは病院に対し、自宅にいる5歳の息子ショーンに自分で伝えるまで夫の死をメディアに伝えないよう依頼していた。ヨーコは、ショーンはおそらくテレビを視ており、父の死をテレビのアナウンスから知ってほしくないと言ったのである。

一方、その日の夕方ルーズヴェルト病院の救急室で、バイク運転中に事故に巻き込まれたWABC-TVの報道プロデューサー、アラン・J・ワイス(Alan J. Weiss)が、治療を待っていた。ワイスは2013年のCNNのシリーズ番組『Crimes of the Century』で、複数の警官が取り囲むようにする中、ジョンが台車付きの担架で救急救命室に運び込まれるところを見たと述べている。ワイスは何が起こったのかを知ると、放送局に電話で情報を伝えた。情報はやがて、ABCニュースの社長ルーン・アーリッジの命令系統にも伝わった。

ABCスポーツの社長でもあったアーリッジは、その晩、『マンデーナイトフットボール』の総合プロデューサーを務めていた。アーリッジがジョンの死亡という情報を伝えられた時は、ニューイングランド・ペイトリオッツマイアミ・ドルフィンズの試合が13点の同点で第4クォーター の後半を迎えたところで、ボールを得たペイトリオッツが決勝点を得ようと試みているところであった。アーリッジは、同番組の放送チームであるハワード・コーセルとフランク・ギフォードにジョン死亡の情報を伝え、テレビの視聴者に伝えることを提案した。

コーセルは1974年にジョンにインタビューしたことがあり、殺害のニュースを視聴者に伝えることに不安を感じたが、結局彼がニュースを伝えることになった。試合終了まで残すところ30秒からの2人のやりとりは以下のとおりである。

コーセル: … しかし、(試合は)突然、我々にも展開が見えてきました。ここでやめましょう。彼らは攻撃を急いでいます。

ギフォード: サードダウン、フォースか。フォアマンです… やはりフォースダウンのようです。キャヴァノーが最後のトライのために走ります。彼はこれ以上マイアミに機会を与えないよう時間をやり過ごすのでしょう。(ホイッスルが鳴る)残り3秒でタイムアウトです。ジョン・スミスがライン上にいます。でも、何がライン上にいるかなんて気にしていられません。ハワード、放送席で我々が知ったことをあなたは伝えなければ。

コーセル: ええ、お伝えしなければなりません。誰が勝とうが誰が負けようが、これはただのフットボールの試合だということを忘れないでください。口にするのもはばかられるような悲劇がニューヨークのABCニュースから伝えられました。ビートルズのメンバーの中でも、おそらく最も有名なジョン・レノンが、ニューヨークウェストサイド・マンハッタンの集合住宅の外で背後から2発の銃撃を受け、ルーズヴェルト病院に急送されましたが、到着と同時に死亡が確認されたとのことです。こんなニュース速報の後に試合に戻るなんてことはとてもできません。たとえそれが我々の仕事だとしても、そうでしょうフランク?

ギフォード: (しばらくの間の後)まったく、そのとおりです。

その他の報道

銃撃を全国に伝えた最初のテレビ放送は、CNNの通常のニュース番組の中で、ジャーナリストのキャスリーン・サリヴァンが伝えたものだった。サリヴァンは、ジョンは銃撃されたが彼の状態はその速報の時点では不明である、と伝えた。NBC は、東海岸で放送されている『ジョニー・カーソンのトゥナイト・ショー』で、臨時速報としてジョンの死を伝えた。

ニューヨークのロック専門局WNEW-FM 102.7は直ちに全ての番組を中断し、専用ダイヤルを開設してリスナーからの電話を受け付けた。やがて全米の放送局は、番組内容をジョンやビートルズの音楽の特集に変更した。

翌日、ヨーコは声明を発表した。「ジョンの葬儀は行われません。ジョンは人類を愛し、人類のために祈りました。彼のために同じことをしてください。愛をこめてヨーコ、ショーン」(“There is no funeral for John. John loved and prayed for the human race. Please do the same for him. Love, Yoko and Sean.”)と述べた。

余波

僕ら(ヨーコと自分)はどちらも、ガンディーマーティン・ルーサー・キング が陥った、殺したり殺されたりといった過ちを繰り返したくない。なぜなら、みんなが好きなのは死んだ聖人だから、僕は聖人や殉教者になるのはごめんだ

_ジョン・レノン_、 大英帝国勲章をなぜ返上するのかと質問されて、1969年  

 

ジョンの死に続いた悲しみの噴出、疑念、人々に共有された精神的荒廃には、ジョンロバート・ケネディや、精神的指導者のマーティン・ルーサー・キング・ジュニアといった、勇敢で人気のある政治家のような世界的著名人の殺害に対する反応と同じような広がり、密度があった。しかし、ジョンは政治的な比喩を詩的に用いる人物であり、彼の社会への精神的な関心は、自分の創造性を養い、広げるための一つの手段であり、内向きなものであった。それが人々にそれまでと違う衝撃を与えた点であった— 彼の想像力がもたらした衝撃、彼の天才性が多くの人々に深く残した影響 — そうしたもの全てが、あまりにも急で恐ろしい形で失われてしまったことであり、それが先週、全世界で嘆き悲しまれたところである。

ジェイ・コックス(Jay Cocks)TIME 』、1980年12月22日

ジョン殺害に対し、世界中でそれまでにない程の規模で深い悲しみが噴出した。ジョンの遺体は1980年12月10日、ニューヨーク州ウエストチェスター郡のハーツデールにあるファーンクリフ墓地で火葬され、葬儀は行われなかった。

ヨーコは、ダコタ・ハウスの外で祈りを捧げる群衆に、歌声により眠ることができないと訴え、彼らに翌日曜日にセントラル・パークに再び集まり、10分間黙とうするように依頼した。

1980年12月14日、ヨーコの呼びかけに応えた数百万の人々が世界中でジョンを追悼し、10分間の黙とうを捧げた。リヴァプールには3,000人が集まり、殺害現場のすぐ近くのニューヨークのセントラル・パークには、最大規模の225,000人以上が集まった。その10分間、ニューヨークの全てのラジオ局は放送を中断した。

また、少なくとも3人のビートルズ・ファンが後を追って自殺したため、ヨーコは、ジョンの死を悼む人々に対して、絶望に負けないよう広告を出して呼びかけた。またヨーコは1981年になって、ソロ・アルバム『シーズン・オブ・グラス』を発表した。アルバムのカヴァーにはジョンの血まみれの眼鏡の写真が使われた。同じ年には、シングル『__ Walking on Thin Ice__』を発表した(ジョンは殺害の数時間前まで、レコード・プラント・スタジオでヨーコとこの楽曲のセッションを行っていた)。

裁判とその後

チャップマンは、精神疾患の申し立てを行おうとした弁護士の助言に反し、ジョンの殺害について1981年に有罪の申し立てを行った。チャップマンは第2級謀殺の罪で有罪となり、ニューヨーク州法において20年から終身までの無期刑を宣告され、20年後の2000年には、仮釈放の申請が可能になった。しかし、チャップマンは2016年現在、仮釈放申請が8回却下され、現在もウェンデ刑務所に服役中である。

逮捕後の裁判で彼は第二級謀殺の罪で告発された。弁護士は彼が精神異常であることを申し立てると思われたが、有罪の申し立てを行った。

チャップマンは第二級謀殺の罪で有罪と認定され、「20年から終身まで」の無期刑の判決を受けた。ニューヨーク州の州法では第二級謀殺の罪は20年服役後に仮釈放が許可される可能性がある無期刑が最高刑である。チャップマンは現在ニューヨーク州バッファローの近くにあるWende Correctional Facilityに収監されている。

2000年から2018年まで2年ごとに8月に、州の仮釈放委員会に累計で10度の仮釈放申請が出されたが、チャップマンの精神や言動に反省や謝罪や更生が見られないこと、ジョン・レノンの遺族である妻子に対する再犯の可能性があること、ジョン・レノンの妻であるオノ・ヨーコらの反対、もしチャップマンが仮釈放されたらジョン・レノンのファンから報復で殺される可能性があることなどを理由として毎回不許可にされ、2018年現在も服役中である。

2014年に妻のグロリア・ヒロコ・チャップマンに初インタビューしたイギリスの『デイリー・メール』誌によると、二人は年に一度44時間、刑務所内のキッチン付きトレーラーで過ごすことが許されているという。

グロリアはハワイに住む日系人女性で、犯行の1年半前に結婚し、事件後も離婚していない。夫婦でオノ・ヨーコに対し赦しを乞う手紙を書いており、レノンとチャップマンは天国で再会すると信じており、ポール・マッカートニーも刑務所を訪ねて現在のチャップマンに会えばきっと好きになるだろうと語ったという。

この件に関し、『デイリー・メール』誌は「心がかき乱される内容」と評した。また、マッカートニーも「私は誰でも許せる性質だと思うが、こいつだけは許す理由が見つからない。こいつは正気を失って、取り返しのつかないことをした。そんな人間になぜ容赦の気持ちを恵んでやる必要があるのかわからない」と発言している。

陰謀論

犯行当時、レノンの狂信的なファンであると報じられ、世界的にその報道が定着したが、さまざまな憶測も語られた。ケネディ大統領暗殺事件に似た陰謀的暗殺説、CIAの関与した催眠術説などがあるが、現在はチャップマンの単独犯行であると結論付けられている。

暗殺説が語られた背景には、レノンの反戦運動の政治的影響力などがあると言われる。また、1981年にはレノンがアメリカ国籍を正式に取得することが可能となる予定であり (永住権取得後、連続5年滞在で申請資格が出来る) 、これがその直前の犯行に結びつけられることもあった。

チャップマン自身は、仮釈放申請の際に、殺人の動機はレノンを殺すことで注目を集め有名になりたかった、と語っている。

追悼と記念

Memorial behind the 「 鉄のカーテン 」の向う側の記念物: プラハのレノンの壁 1981年8月

アニー・リーボヴィッツが殺害当日に撮影した、全裸のジョンが妻を抱擁している写真は、『ローリング・ストーン』の1981年1月22日号の表紙となり、その号の大半はジョンの追悼記事、関係書簡、写真により占められた。2005年、アメリカ雑誌編集者協会(ASME)は、この表紙をこの40年間における最優秀の表紙に選んだ。

ミュージシャンたち

ビートルズの元メンバー

ジョージ・ハリスンは1981年、リンゴ・スターポール・マッカートニーも参加している追悼曲『過ぎ去りし日々』を発表した。ポール自身も、1982年のアルバム『タッグ・オブ・ウォー』の中で、追悼曲『ヒア・トゥデイ (ポール・マッカートニーの曲)』を発表した。

エルトン・ジョン

ジョンと全米1位となったヒット曲『真夜中を突っ走れ』を録音したエルトン・ジョンは、作詞家のバーニー・トーピンと共同でジョンの追悼曲『エンプティ・ガーデン』を録音した。

この曲は、彼の1982年のアルバム『ジャンプ・アップ』に収録されて発表され、その年の全米シングルチャートで13位を記録した。エルトン・ジョンが1982年8月に、マディソン・スクエア・ガーデンで完売となったコンサートでこの曲を歌った時には、ヨーコとショーンも参加した。

クイーン

クイーンは、アルバム『ザ・ゲーム』発表に合わせて行ったコンサート・ツアー「ザ・ゲーム・ツアー」中、ジョンの死後から彼の代表曲『イマジン』をカヴァーした。クイーンは、1982年のアルバム『ホット・スペース』でジョンに敬意を表し、フレディ・マーキュリーによる楽曲『ライフ・イズ・リアル(レノンに捧ぐ)』も発表している。

ロキシー・ミュージック

ロキシー・ミュージック は、ドイツ公演での演奏曲目にジョンの『ジェラス・ガイ』を追加したが、この公演は録音されて1981年3月に発売された。これはロキシー・ミュージックの楽曲で唯一、全英シングルチャート1位を記録して2週間その座を保持した。一部、完全収録されていないものもあるが、様々なロキシー・ミュージックやブライアン・フェリーの作品に、収録されている。

ポール・サイモン

ポール・サイモンは、ジョンへのオマージュとして『ザ・レイト・グレイト・ジョニー・エース』を発表した。曲中では最初に、1954年に銃で自殺したリズム・アンド・ブルースの歌手、ジョニー・エース (歌手)について歌われ、続けてジョンとビートルマニア現象が始まった1963年に暗殺されたジョン・F・ケネディ大統領にも言及している。

サイモンはこの曲を、1981年にセントラル・パーク行われたサイモン&ガーファンクルの再結成コンサートで既に演奏していた。このコンサートでは1人のファンが、この曲の演奏の最後の方で、おそらくはジョンへの言及に反応して、ステージに駆け上がるという事件が発生した。このファンはサイモンに「君に話がある」(“I have to talk to you”)と話しかけたが、サイモンのスタッフにより引きずりおろされた。この一部始終はコンサートのDVDで今も見ることができる。またこの曲はサイモンの1983年のアルバム『ハーツ・アンド・ボーンズ』にも収録されている。

デヴィッド・ボウイ

1970年代中頃からジョンと親交のあったデヴィッド・ボウイは(1975年にボウイの全米1位のヒットとなった『フェイム』はジョンとの共作、ジョンは演奏にも参加している)、「シリアス・ムーンライト・ツアー」において、ジョンの3回忌にあたる1983年12月8日の香港コロシアムでの最終公演で、追悼曲を演奏した。

ボウイは、ジョンに最後に会ったのは香港でのことだったと述べ、続けて「1980年のこの日、12月8日に、ジョン・レノンはニューヨークのアパートの外で銃撃を受け、殺された」と述べた後、ジョンの『イマジン』をカヴァーした。ピンク・フロイドデヴィッド・ギルモア は、ジョンの死への反応として『Murder』を作曲、録音し、1984年にギルモアのソロ・アルバム『狂気のプロフィール』で発表した。

ボブ・ディラン

2012年、アルバム『テンペスト』の中で、ジョンの追悼曲『Roll on John』を発表した。

モニュメントや施設

セントラル・パーク内の「ストロベリー・フィールズ」区画にあるイマジンの記念モザイク
ストロベリー・フィールズ」とダコタ・ハウス

1985年ニューヨーク市は、セントラル・パーク内のダコタ・ハウスのすぐ近く、ジョンがよく散策していた区域の一部をストロベリー・フィールズとして開所した。人々の団結の象徴として、世界中の国々がここに樹木を献呈したほか、イタリアナポリ市は、この区画の目玉としてイマジンの記念モザイクを献呈した。

プラハマラー・ストラナにも、1986年に記念碑的なジョンの墓が建立され、そこはチェコスロバキアの共産主義政権打倒のデモの開催地ともなった。

2000年には、キューバの国家元首フィデル・カストロが、ハバナ市内の公園に建てられたジョンの銅像の除幕式を行っている。

同年には、日本さいたま市さいたまスーパーアリーナ内に、ジョン・レノン・ミュージアムが設立された(2010年9月30日閉鎖)。

リヴァプール市は2002年、市内の空港をリバプール・ジョン・レノン空港と改称し、ジョンの『イマジン』の歌詞の一節「”Above us only sky”」をモットーとした。

2006年12月9日メキシコプエブラでは、ジョンの音楽、文化、平和に対する貢献を讃える銘鈑が設置、公開された。 2007年12月9日、 アイスランドの首都レイキャヴィーク沖のヴィーズエイ島に、ヨーコはイマジン・ピース・タワーという記念物を設立した。毎年10月9日から12月8日の間、ジョンを記念して空に光による垂直の塔が投影されている。

1990年、ワルシャワのある通りの名を、ジョンを記念して再命名しようという市民グループが現れた。嘆願には支持者約5000名の署名が集まり、議会ではすんなり可決された。

その他の追悼

ジョンは1991年グラミー賞特別功労賞生涯業績賞を贈られた。

1994年には、グルジアの自治共和国で、事実上分離独立した アブハジア共和国が、過去の共産主義体制をちゃかすかのように、ウラジーミル・レーニンの代わりにジョン、カール・マルクスの代わりにグルーチョ・マルクスの肖像が印刷された記念切手を発行した(しかし、ヨーコや他のビートルズのメンバーはこの切手を快く思っておらず、ライセンス違反を理由に発行、販売の差止めを求めている)。

1983年1月12日ローウェル天文台のブライアン・スキッフ(B. A. Skiff)により発見された4147 Lennonは、ジョンを記念して命名された。

ハリウッドキャピトル・レコード本社ビルの前では、毎年12月8日に記念式典が催されている。この時には、キャピトル・レコード本社ビルの近くのハリウッド・ウォーク・オブ・フェームにあるジョンの星型プレートに点火された蝋燭が供えられる。

2007年9月28日から9月30日までの間、スコットランドのダーネスでジョン・レノンノーザンライツフェスティバル(the John Lennon Northern Lights Festival)が開催され、ジュリア・ベアード(ジョンの異父姉)が出席し、ジョンの詩や自身の著作を朗読したほか、ジョンのスコットランド人のいとこ、スタンレー・パークス(Stanley Parkes)も出席した。また、全英から音楽家、画家、詩人が集まり、フェスティバルで芸を披露した。

2009年には、ロックの殿堂のニューヨークの別館で、ジョンの遺品や個人的な所持品等の展示会が開催され、展示物の中には、殺害時にジョンが来ていた服も含まれており、ルーズヴェルト病院から返却された際の茶色の紙袋に入ったまま展示されていた。ヨーコはいまでも、12月8日になるとダコタのジョンの部屋の窓に明かりを灯したキャンドルを供える。

事件の映画化

ジョンの殺害を描いた映画は2本あり、どちらも事件のおよそ25年後に公開されている。

1本目の『ジョン・レノンを撃った男』は2007年12月7日に公開された。監督はアンドリュー・ピディントン(Andrew Piddington)で、チャップマンをジョナス・ボール(Jonas Ball)が演じた。

もう1つの『チャプター27』は2008年3月28日に公開された。監督はジャレット・シェファーで、チャップマンをジャレッド・レトが演じた。ジョン役は、偶然にも殺人犯とファーストネーム、ラストネームが同一の俳優、マーク・リンゼイ・チャップマンが演じた。